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縄文と弥生の境目~水田稲作はどのように始まったか

前回に引き続き、縄文と弥生の境目について、弥生時代が始まったとされる「水稲=水田稲作」がどのように日本で始まったか。

渡来人から伝わったことはある程度事実だと思いますが、それだけ❓でしょうか。

追求してみたいと思います。

以下の記事を参考にさせていただきます。

縄文人は戦争を誘発する農耕を拒んだ?
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6134
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(前略)
「最初から稲作一辺倒だったわけではない」

ところで、すでに触れたように、縄文時代にすでに稲作は行われていた。縄文中期末(約4500年前)の土器の表面に、稲籾の圧痕が着いていたのだ。

「本当に稲なのか」と、疑われることもあったが、イネ科植物に含まれるケイ酸の化石(プラントオパール)が、縄文後期中ごろの土器の胎土に含まれていたことから、縄文時代の稲作は、確実視されるようになった。ただし、水田ではなく、陸稲だった。また、縄文後期中ごろから、オオムギ、ハトムギ、ヒエ、アワなどの穀物や豆類の圧痕もみつかっている。

また、縄文系と思われていた突帯文土器の時代に、すでに水田稲作が行われていたのは、北部九州沿岸部だけではない。四国、中国、近畿でも、同じように、水田稲作民が登場していたのだ。

穀物を栽培していた縄文後・晩期の西日本の縄文人を、考古学では「園耕民」と呼ぶ。彼らは川の下流部には住まなかった。たとえば稲作がもっとも早い段階に始まった早良平野でも、園耕民は、川の中流、上流で暮らしていた。

縄文人は低湿地を好まない。縄文海進によって海面が高かった時代から続く伝統だ。穀物だけではなく、さまざまな手段で食料を調達する園耕民は、川の上流側を選んだ。
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縄文海進は、縄文人にとっては避けられない外圧であったはずです。また縄文中期に陸稲で食を得ていたという事実も重要。縄文人が稲作を既に始めていたことが重要です。
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ところが、縄文時代の晩期は冷涼多雨で、下流域に稲作に適した低湿地が形成されつつあった。これは偶然なのか、あるいは、この自然条件があったから、縄文人が生業を変えようと決意したのかどうか、よくわからないが、ここで水田稲作が始まったのは間違いない。

この時代の遺跡からは、水田稲作に用いる新たな道具に混じって、縄文人が陸稲栽培に用いた打製の土掘り具が見つかっている。また、食料も、縄文時代以来継承されてきたような、「多彩な食物(イノシシやシカなどの動物、魚貝類、ドングリ)採取がメインで、米食は補完」と考えた方が正確なのだ。2つの生産方式を並行して行っていた。はじめは従来の食料を補完するために、水田稲作を選択したわけである。

ただし、やがて水田の面積は広がり、採集や狩猟は下火になっていくのである。
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縄文晩期になると水稲が始まっています。陸稲から水稲にした方が良い。そういう気候になったということが言えるのではないでしょうか。

(菜畑遺跡 縄文時代の復元水田)
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そしてもう1つ、縄文から弥生への転換期を考える上で大きな意味をもってきたのが、「いつごろ水田稲作を始めたのか」だった。

かつて、弥生時代の始まりは、紀元前300年から、同500年ごろと信じられていた。

このころ、中国大陸では、春秋戦国という大混乱の時代だったのだ。多くの難民が海に逃れ、日本列島に押し寄せて、弥生時代は始まったと信じられていた。

ところが、炭素14年代法によって、弥生時代の始まりは紀元前10世紀後半と考えられるようになり、「稲作を選択したのは縄文人だった」という考古学の証言とも、一致してきた。さらに、稲作はゆるやかに東に伝わっていったと考えられるようになった。

考古学者・金関恕(かなせきひろし)は、『弥生文化の成立』(角川選書)の中で、弥生時代の始まりを、次のように総括する。要約しておく。

(1)イネは遅くとも縄文時代後期に日本に伝わり陸稲として栽培されていた。
(2)朝鮮半島南部とは密接な交流があり、縄文人が主体的に必要な文化を取捨選択した。
(3)縄文人と渡来人は当初棲み分けを果たし、在地の縄文人が自主的に新文化を受容した。
(4)まとまった渡来人の移住は、弥生時代初期ではなく、そのあと。

こうして、「渡来人に席巻されて稲作が広まった」というかつての常識は、完ぺきに覆されたのだ。
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自分も、

・縄文人は主体的に水稲はじめとした新たな文化を、主体的に取り込んだのではないか。
・気候変動なども相まって、水稲=水田稲作がベストな選択。縄文人はそう考えたのではないか。
その方がスッキリ整合する気がします。

水稲が大陸の文化であることは事実ですが、渡来人に支配されたというような一側面ではなく、外圧に従って行動したのではないかと思います。

以上、水田稲作がどのように始まったか?!でした!

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