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日本で弥生文化が浸透しなかった事実は何を示しているか?~中国の歴史と重ねてみる

弥生時代という時代区分がありますが、一方で、弥生文化自体は日本列島全体には浸透しなかったという一定考古学的な事実があります。
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縄文人は戦争を誘発する農耕を拒んだ?
https://shuchi.php.co.jp/rekishikaido/detail/6134?p=1 [1]

縄文の壁」は、6つの地域に存在したという。
(1)南島の壁、
(2)九州の壁、
(3)中国地方と四国の壁、
(4)中部の壁、
(5)東日本の壁、
(6)北海道の壁だ。
このうち、南島と北海道は、弥生時代には突破できなかった。

北部九州でも、水田、環濠集落、金属器、弥生土器すべてが揃うまで、約200年を要している。弥生時代前期の関門海峡の東側では、日常生活でいまだに縄文系の道具類を使用していた。また、板付遺跡を起点にして、関東に弥生文化が到達するまで、400~500年、最初の水田が北部九州にできてからだと、約700〜800年かかっている。
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この事実は一体何を示しているのか。追求したいと思います。
まず、弥生時代を中国大陸の歴史と重ねて俯瞰してみたいと思います。以下の年表をみると、弥生時代に中国大陸から繰り返し様々な渡来人がやってきたことがよくわかります。
弥生時代関連年表
https://www.pref.shimane.lg.jp/bunkazai/plusonline21/index.data/R3_02resume_tawayama.pdf [2]

抜粋すると、
弥生時代開始とともに、中国は春秋戦国時代へ。中国全土で諸侯が争う時代に突入した。
弥生時代中期に、始皇帝が秦を開く。日本では「倭人は百余国に分かれ…」突然国が興る。(倭人が日本に存在したかどうかは、現在も明確になっていないと考えられます)
弥生時代中期末には、朝鮮半島は、楽浪郡,馬韓,弁韓,辰韓が成立。日本では倭国が大陸へ朝貢を繰り返します。
弥生時代の開始に大陸では春秋戦国に。弥生時代の終末には晋が呉を滅ぼし中国を統一。まるで中国大陸の様相がそのまま日本の弥生時代を形成したとみることもできます。

中国歴史と重ねると、かなりの確率で様々な渡来人が海を渡ってきたことが伺えます。

中国大陸の渡来人は戦争時代、政治,祭祀をもって国をつくり争ってきました。この源流は、中国最古の王朝であるにあると考えられます。殷時代の甲骨文字の記録,分析から彼らがどんな意識にあるか追ってみます。


甲骨文字

武丁時代甲骨文にみる神と王
http://www.for.aichi-pu.ac.jp/museum/pdf/yoshiike11.pdf [3]


           帝,自然神,祖先神の図解

>「殷王の祖先は人間と「帝」の間を繋ぐ唯一の〈仲介者〉であったのであり、殷王は「帝」との回路を自らの祖先祭祀として独占することにより「帝」に由来する権威の正当性を主張したのである。

>後の康丁・武乙・文丁時代には祖先の霊を帝の機能に近いものとして考えるようになったと推測することができる甲骨文があらわれます。また、帝乙・帝辛時代になると、祖先の、神としての地位が確立し、その子孫である殷王の意志がすべてに優先するかのような甲骨文が出てきます。

・図解を見ると自然神の上に「帝」がいて、自然神と同列で「祖先神」がいるようにみえます。
・甲骨文字の記録では、殷の王は王朝後期になるに従い、自然神より上に勝手に想像した「帝」と繋ぐ唯一の存在であり、行く末は「帝」よりも、殷の王自らの意思が優先されるように祭祀を行ったという風に記録されています。

勝手につくりあげた「帝」それを勝手に「祖先神」として独占し、果てには王の意思が優先されるような祭祀を行っていた。
勝手に序列をつくり、それを平気で変える。弥生時代の中国は、このような正当化の意識で固まった諸侯が自らを正当化し、敗北した渡来人が日本に渡ってきた。

中国大陸からの様々な渡来人に対して、土着の縄文人はどう捉えたどうでしょうか。
縄文人は、恐らく「自然神」とさえ認識しておらず、帝や祖先神含めて”渡来人は何を言っているのか”受け入れることさえなかったのではないでしょうか。

かつ、争うような意識もない縄文人は、戦って抵抗することも少ない。このような序列,正当化の意識などにはとらわれない。
次第に、渡来人も戦争などの争いは止めて(日本で戦争の跡がみられる遺跡は少ない)、中国の時の王朝に対して朝貢するだけに意識が向き始めたのではないでしょうか。

この意識の隔たりが、冒頭の弥生文化が日本列島全体に浸透しなかった「壁」の大きな要因なのではないでしょうか。

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