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古墳はどのようにつくられたのか、当時の現場はどのように動いていたのか

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みなさん、こんにちは。出身が大阪府の和泉市で、百舌鳥の古市古墳群など、古墳を目にする機会が多くありました。今回は、このような巨大な古墳はどのようにつくられたのか、世界三大墳墓のひとつに数えられる仁徳天皇陵古墳を事例に見ていこうと思います。

〈仁徳天皇陵古墳のつくられかた〉
古墳にはさまざなな規模、形状のものがあり、その工法や手順は、各種異なる場合もありますが、中でも特に巨大な古墳「仁徳天皇凌古墳」について見ていこうと思います。

①杭と縄を使って、設計図を地面にひく
台地上といっても決して平坦ではないので、丘を削り、谷を埋めておよそ800m四方の水平の地盤を造成。そこに設計図をもとに杭と縄を用いて地面に縄張りを行う。
これだけの平坦地を測量して造成した当時の技術は相当のものだったと思います。

②表面の土を掘り起こしてレンズ状に盛り土にする
平坦に造成した地面に最初に盛る土は、表土のような黒土で、しかもひっくり返して積み上げる。3~4単位積み重ねて全体で厚さ30㎝程の層を土台とした。
古墳の盛り土では、こうした層はよく見られます。土木工学的に必要な作業であったことが伺えます。

③濠を掘削する
濠の形状に合わせて粘土層や砂礫層の掘削を進める。

④掘った土を運び、盛り土にする
濠を掘削した土だけでは盛り土のすべてを賄えないので、離れた場所でも採掘して運び込む。掘削土の運搬は1人で行うこともあったが、「もっこ」と呼ばれる道具を用いて2人1組で行ったのではないかと考えられています。

⑤斜面に石を差し込んで積んでいく
墳丘の盛り土が完成していくと、斜面に石を差し込んで並べていく。一番下の基底や、作業単位の基準となるところにはそれよりも大きな石が使われた。石は掘削土の中から、あるいは周辺から調達された。

⑥後円部中央に穴を掘って、石棺を入れる
大王の棺は後円部に埋葬。完成した後円部ではその中央を掘削して内部に排水施設を設け、長持形石棺を納めた。石棺の周囲は石を積み上げて壁体を造る。その裏側には大量の裏込石が入れられ、大きな板状の天井石も加工が施され用意された。

⑦石槨の周りを副葬品で飾る、埴輪を運んで並べ完成
石棺の内部、あるいは石棺の周囲には豪華な副葬品が多数置かれた。また、焼き上がった円筒埴輪は、盛り上がった墳丘の各テラスに運び込まれ、溝状に掘られた所へ高さを揃えながら連続して樹立された。

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⇒各手順を見ていくと、精密な管理、人や資材の運用が行われていることがわかります。では、この古墳建設に要する人や期間は、どの程度のものだったのでしょうか。

 

〈当時の現場はどう動いていたのか/どの程度の期間を要したのか〉

〇現場には、総勢6000人が集中していた!?
ある建設企業の試算によると、現場の作業員は2000人程度と想定され、さらに現場で働く人びとのために、スキやクワなどを作る人員、専門技術の指導者なども含めると、総勢3,000人もの人びとが常駐したと想定される。
また、この大集団に食事なども支給されなければならない。毎日食事を用意する”後備え”には、陵を造る直接の労働力とは別個にほぼ同数の要員が必要。すなわち、この場所に一時に6,000人もが集中したとされています。

〇現代の工法と工期の比較
『日本書紀』によれば、仁徳天皇87年1月16日崩御、同年10月7日埋葬と見え、寿陵として着手してから埋葬までほぼ20年かかっていると思われます。
ここでも、古代の工法と現代の工法について、実際に試算した工期の事例を参考にすると↓

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古代の工法では、15年8カ月程度の期間を要したという調査が行われており、莫大な年月がかけられたとされます。対して、現代の工法では、2年6カ月程度とされ、これは、人力と機械力の比較であるから、ある意味当然。しかし、人力による作業が可能である分、葺石工事の品質管理などでは、古代工法が有利と思われる点もあります。

古墳のつくられかたや当時の現場の風景を想定していくと、巨大な古墳を作るには、相当の年月と莫大な労力、資源が必要だということが改めてわかります。これは、当時の時代の権力の大きさとも比例し、それまでの時代にはなかった大きな力が働いていたということも同時に理解できました。

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