2022年1月14日
2022年01月14日
【縄文再考】受容と変容のなかで多様性を育む縄文人
みなさん、こんにちは!
縄文人の精神性をより解明していくため、弥生時代における縄文人の変化について分析をはじめました。
弥生時代を丁寧に読み解くことで弥生人に駆逐・支配されたのではなく、「渡りきた者たちを受け入れ、共存し、対象から学ぶ」縄文人が見えてきました。
中でも、関東以北においては、環濠集落がみられないにも関わらず、稲作技術が広がっていたというのは興味深い。
今回は、縄文人主導の水田は本当に存在したのか? 関東以北における縄文人の精神性はどう変化していったのか?を追求していきたいと思います。
■関東以北での水田は存在したのか?
稲は寒さに弱いことから、東北地方北部での稲作はありえないというのが定説となっていた弥生時代。
加えて、環濠集落跡も見られないことから、弥生人の支配を受けずに北には縄文文化が残ったという説がありますが…
青森県弘前市三和の砂沢溜池では、弥生時代前期における地形をうまく利用した畦畔のある水田跡が発見。加えて、砂沢遺跡から南東に約20キロ離れた田舎館村の垂柳遺跡でも2100年前~2000年前の弥生時代中期の水田跡が発見されている。
とくに、垂柳遺跡の水田は、小規模ながら畦(あぜ)が碁盤の目のように巡らされ、1面は小規模ながら計656面もの本格的な稲作が行われていたことがわかっている。
弥生人との交流、弥生人からの学びなくしては、到達しえない技術といえる。
■では、どうやって稲作を学んだのか?
弥生時代といえば、薄焼きでシンプルな弥生土器は以前紹介したとおり。ところがこの弥生土器、東日本で発掘されたもののなかでは「縄文」が施されているものもある。
さらに、西日本の弥生遺跡では、東日本の特徴的な縄文様が施されている土器も一部見つかっている(原料となっている粘土は西日本のもの)。東日本、西日本での人的交流があったことがやはり見えてくる。
わざわざ人を送って、技術を学ぶ。縄文の伝統は守りつつ、新しい文化も吸収するという姿勢をやはり感じます。
■受容と変容が生み出す多様性
ただ、東日本でいち早く稲作を取り入れ砂沢遺跡の縄文人も、稲作は300年しか続かず、そのあとパッタリと水田跡がみられない。
また、狩猟や漁労、木の実や山菜の採集は続いており、農耕の一部として取り入れられていたこともわかる。
もちろん、東北の気候も関係ないとは言えませんが、新しい文化を取り入れつつも、伝統的な文化も捨てない、受容するなかで少しずつ変容していく、結果として多様性を備えていくのが“縄文人”なのかもしれません。
この特色は、縄文時代における土器のゆるやかな進化とも整合する。対象を徹底的に注視する中で学びつつも、極端に、単一の手法に収束することなく、じっくりと時間を掛けながら、技術・認識を深めていく縄文人。
可能性を感じつつも、弥生時代における急激な進化と比較すると、追求スピードという点においては追求ポイントがありそうです。次回は、弥生人=渡来人の分析を進めることで、縄文人との思考の違いを解明していきたいと思います。
投稿者 sibata-h : 2022年01月14日 Tweet