縄文再考;縄文時代の中間まとめ 本流は南方からの到達組だが他にも居る |
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2021年11月04日
【縄文2021】~縄文に立つ東京。東京湾に集結した縄文人を支えた基盤とは?
みなさん、こんにちは。
縄文再考をテーマに、これまで縄文土器や土偶、縄文人の経路等を追求してきましたが、本日は本やネット情報だけでなく、リアルに縄文を感じながら追求していきます。
2021年10月9日から江戸東京博物館で「縄文2021」が開催されていましたので、その様子をご紹介します!
圧倒的に大きい縄文土器や石棒!国宝の縄文ビーナス!貝塚で発見されたハマグリの大きさや食糧の多様さ!など、多くの気づきがありました。
そこで、今回から4回に分けて、【縄文2021展】を紹介します。
縄文人の営みを、生々しく伝えていきます!
※写真については特別展で撮影許可されたものを掲載しています。
■縄文の上に立つ東京~海の民の縄文人が集結!
縄文時代は世界史的に見て非常に特徴的な時代でした。それは、世界にさきがけて土器をつくり、定住が行われたにも関わらず、(世界の民族と異なり)農業をほとんど行わなかったからです。また、土器は実用性を超えて、過度なまでに造形美や模様にこだわりました。
写真 縄文土器(縄文中期)
世界的にみても不思議な暮らしを営んでいた縄文人でしたが、最盛期は26万人まで繁栄。その縄文人を支えたものは何だったのでしょうか。
そこにには、日本列島の多様な気候、多様な地形、そして厳しい自然から生まれる豊富な海と山の幸が欠かせません。
「縄文2021」展で最初に紹介されたのは、縄文時代の関東の地形でした!
そして、地層調査によって分かったことは、縄文人が東京湾に大集結していたのです。
写真 関東地方縄文海進と貝塚分布
1万年前からはじまった温暖化によって、約6000年前ごろには海水面は現在より+4~5mまで上昇。
東京東部はもちろん、埼玉・栃木県まで海が浸食し、千葉県・茨城県は分断されるほど海が入り組んでいました。東京湾は世界随一の大きな湾だったのです。
その海と陸の境界線で、ものの見事に大量の貝塚が発見されました!
有名な大田区の大森貝塚はもちろんのこと、都内の至る所で貝塚が見つかっています。
貝塚をよくみると、4~5cmの大きなハマグリ!さらにシジミ、マガキなど多様な貝や、クロダイ・ヒラメなどの骨も見つかっています。予想以上にグルメですね。そして、貝の加工処理場も発見されるなど、漁撈を発展させた水産業を営んでいた形跡があることがわかっています。
写真 貝塚(左)と採掘された貝や骨(右)
■東京の丘陵地にも、山の民の縄文人が集結!
さらに、海岸だけでなく、丘陵地にも縄文人の痕跡がいっぱい見つかっています。
写真 東京都の縄文主要遺跡
都内における縄文時代の遺跡は、集落だけでなく土器片も含めると、なんと3800か所以上確認されています。多摩川などの河川沿いはもちろんのこと、武蔵野台地や多摩丘陵地にも様々な集落が見つかりました。
最近の調査では、多摩丘陵で谷一面を埋める無数の落とし穴が発見されたり、土器づくり専門の集落(多摩ニュータウン遺跡)があったり、クリやウルシの林を管理したり、豆類(ダイズ・アズキ)の栽培(多摩ニュータウン遺跡)も行われていたようです。
■自然の恵みと栽培・水産業→安定基盤の上に、人口増加・土器文化が開花
改めてみると東京湾は、今では信じられないほどの水産物が集まり、豊かさの象徴でした。さらにはその海に流れ込む河川や丘陵地も多くの動物が生息し、植物が茂っていたのです。
農業未発達の縄文の背後には、四季折々の風土、火山列島の織りなす地形と海流がもたらす自然の恵みがありました。とりわけ、世界随一の湾の大きさ、その後背地の広さをもった東京湾近郊は、海の幸・山の幸の交差点でした!
もちろん、火山や地震による自然外圧や、縄文後期以降の寒冷化は縄文人を苦しめました。
それでも、世界的に見て自然の恩恵を受けたのが日本列島でした。自然の恵みを大切に頂き、さらに栽培・水産業を営むことで安定した社会を築き、それを基盤に人口の増加と土器などの表現活動(贈与活動)が華開いたのです。
投稿者 ando-tai : 2021年11月04日 TweetList
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