東にあった「もう一つの日本」~プロローグ |
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2013年03月20日
伽耶を知れば古代日本が見える(1)~古事記、日本書紀がついた嘘とは~
前回のプロローグから随分あいてしまいましたが、「伽耶を知れば古代日本が見える」シリーズを再開したいと思います。
プロローグにおいて、記紀の様々な嘘が挙げられていますが、これは「いつ誰が何の目的」で書いたのかが問題となります。
一般的に、「古事記は国内向けに編纂」され、「日本書紀は対外的な目的で編纂」されたと解釈されています。
これら二書の編纂の目的は、天皇家の国家支配の正当性を説明することにあります。
二書はそれぞれの世界観が異なっています。
共に天皇を神聖化し支配の正当性を主張していますが、古事記では、天皇の祖先が天の最高神であることに天下支配の根拠を求めています。一方、日本書紀では世界の始まりは中国の陰陽思想をもとに語られ、それが続く形で天皇の正当性が述べられています。
さらに形態や文体も異なっており、古事記は神や天皇の伝記を中心に物語風にまとめた構成で、漢文を下敷きにした和文体で表記されていますが、日本書紀では出来事を時代順に記した編年体で、中国で最も早くから使われていた歴史書の編纂形式をとっており、表記も当時東アジア世界の国際語であった漢文となっています。
つまり、中国の律令国家を目標にしていた日本は法と歴史の整備が重要課題であり、そのため中国(唐)向けの国史「日本書紀」を編纂し、その一方で天皇の国内支配を強化すべく、天皇家の私史「古事記」を編纂したと考えられます。
また、日本書紀は中国(唐)向けの国史でありながらも、後の天皇家の継承を裏付ける内容にもなっています。
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天武天皇 Wikipediaより |
【日本書紀の捏造】
通説では、「日本書紀」は天武天皇の強い意志で書かれたと考えています。日本書紀の編纂が720年、天武天皇が亡くなったのが686年ですから、天武天皇亡き後、34年後に日本書紀は完成したことになります。この34年後をどう見るかですが、天武の為に書かれたとするには少し時間が経ち過ぎているのではないでしょうか?
では、この34年間に何があったのでしょうか?
○ | まず一つ目は、天武天皇が亡くなった後すぐに、息子の大津皇子が謀反の疑いをかけられ、自殺に追い込まれている点。 |
○ | もう一つ不思議なことは、壬申の乱で、中臣鎌足が大友(天智の息子)側に就いたために、天武朝では中臣氏は大島を除いてことごとく締め出されているのにも関わらず、鎌足の息子である藤原不比等(大宝律令の編纂に貢献した)という人物が、天武天皇亡き後、持統天皇に種々の大抜擢(息子の草壁皇子の助言者や判事の任)を受け、朝廷の中枢を担っている点(※一般に、持統天皇は、天武天皇の遺志を継いで、皇位についたはずなのに・・・)。 |
これらから推測されるのは、持統天皇は、天武天皇の遺志を継ぐ気はさらさらなく、息子の草壁皇子を天皇にすることしか頭になかったのではないかと言うことです。
また、不比等としても、持統天皇に従って、草壁皇子を天皇に擁立するのを手伝い、あわよくば日本書紀の編纂にも携わることができれば、父鎌足の入鹿暗殺の正当性を主張することができるのです。
そのように考えると、「日本書紀」は天武天皇のためと見せかけて、実は天智天皇や持統天皇のために書かれていたと考えられます。その理由としては以下のようなことが挙げられます。
○ | 奈良時代末期、天武系の天皇が途絶え、再び天智系の天皇が即位し、平安時代を迎え、それ以降天智系の天皇が続き(現代まで続いている)、日本書紀は平安時代以降正史として大事に守られていることです。まさに、天智の末裔にとっては、天武は憎い敵。その敵を正当化する書物を正史としている点。 |
○ | また、天智の懐刀であった中臣鎌足が英雄視されており、かなり詳述されている点。 これは、律令制度を最初に取り入れようとした偉人、聖徳太子を仕立て上げ、その敵として入鹿を記述し、その入鹿を倒した鎌足を英雄とすることで、父を正当化し、しかもその息子の自分(不比等)が大宝律令を編纂する正当性も得られます。 |
○ | もう一つ、天武天皇と持統天皇が他に例のないほど愛し合っていたと記述されている理由。 天武天皇と持統天皇が相思相愛で、お互いの愛が非常に深かったと記述することで、持統天皇があたかも天武天皇の遺志を継いで即位したと思わせ、持統天皇の正当性を訴え、あたかも日本書紀が天武天皇のために書かれたように見せかけたのです。 |
藤原不比等 Wikipediaより |
以上のことから、これらすべてを工作したのが不比等だったと推測できます。
そして、歴史は、不比等や持統天皇の思惑通り、天武系の天皇の系列は称徳天皇で途切れ、光仁天皇以来、天智系の流れで天皇は続いていくことになったのです。
【記紀の最大の捏造は?】
このように記紀だけでなく、歴史書と言われるものは概ね捏造された箇所があると思った方が良いように思われます。
これら歴史書には当時の権力者の主張が多く含まれ、都合の悪い部分が抹消された捏造書である可能性が高くなっています。もちろん、全てが捏造されたものではないため、その虚偽を見抜く=歴史を解明することが困難になっているのです。ですから、歴史を読み解く場合には、自国の歴史書だけでなく、他国(朝鮮半島)の歴史書も紐解く必要があります。
例えば、「倭」という言葉一つでもそうです。殆どの人は「倭」=「日本」という認識が固定していますが、これは新羅が朝鮮半島の中南部を統一して以降のことです(『三国史記・新羅本紀』による)。それ以前の実態は『新羅本紀・倭侵記事』にあるように、倭は朝鮮半島南部、対馬、九州など日本列島にも散在していたようです。
実際、伽耶諸国が滅亡した後、倭族は朝鮮半島内から次第にその姿を消していき、一部は日本に渡り、一部の残留した人々は百済や新羅に吸収され、三国の争覇において新羅が勝利を得てからは、新羅領域内に伽耶人も百済人も倭人も残ることなく、倭人の殆どは日本へ渡ってきたと考えられます。
つまり「倭人」という言葉で一括りした場合、彼らは朝鮮半島にも居たという認識が必要になるのです。
日本書紀においては友好的か敵対的かという記事に終始し(参考:『倭国と任那の関係を書紀より読み取る』)、朝鮮半島から渡来という記述は全くと言ってよいほどありません。
やがて登場する弥生時代、古墳時代にはおびただしい大陸からの敗残者が何波にもわたって渡来、土着の縄文人を巻き込み日本の生産形態を採取、狩猟から農耕生産にきり変え、農耕中心の社会システムを作り上げていきます。
『プロローグ』より
古代日本は大陸から様々な人種、集団が入り込みながら混血し、固有の縄文文化を形成してきたことは周知の事実となりつつありますが、記紀編纂を行ったのは縄文人ではなく、その後、弥生時代以降の渡来人によるものです。
彼らは己の出自を隠し、縄文人(国内向け)には「縄文人支配」ではなく「国家統合」、大国「唐」に向けては「侵略国家」ではなく「由緒ある歴史国家」というアピールを行ったのが記紀だったのです。
ここまでは一般的に言われている記紀捏造の目的ですが、この裏にはもう一点の事実が隠されているように思われます。それが、次々と押し寄せてくる朝鮮半島からの敗者の移民です。
受入れ体質である縄文人に対する「国家統合」と言うよりも、むしろ、これら敗者である移民に対して、同じ敗者でありながらも、あたかも当初から日本を統治していた者として見せ、従わせる必要があったと考えた方がすっきりします。
記紀最大の捏造とは、朝鮮半島を追われた敗者という出自を故意に抹消し、「自らの正当性を訴え、天皇制までを創りだした」ということになるのではないでしょうか?
さて、次回からは「倭」として日本と一体であったと思われる伽耶諸国の歴史に迫ってみたいと思います。
ご期待下さい♪
投稿者 yoriya : 2013年03月20日 TweetList
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