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2013年03月17日

東にあった「もう一つの日本」~プロローグ

前回の弥生時代再考の中で古墳の章でも少し触れましたが、大和朝廷とは決して最初から日本を統一したわけではありません。
日本全国を一時期、前方後方墳前方後円墳で2分したように、東には大和朝廷とは別の有力な勢力が長い期間(少なく見積もってもAD300年からAD600年までの300年間)はあったと思われます。また、大和朝廷から奈良時代にかけて日本国と国名を変えて以降も、この東の勢力は脈々と残り続け、現在の日本にまで繋がっているとさえ見る事ができます。
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関東―関西、東日本―西日本、今でも電力の周波数が違っている事が象徴するように、日本において東と西は明確に異なった人種、文化があるのです。しかしながら、天皇中心とする日本正史の日本書紀ではその事が書かれず、現在でも多くの人は日本は一つであると思っています。
この東の日本は古くは縄文人のメッカであり、古墳時代には高句麗、新羅が入り込み、古墳を中心に地域国家を形成、以後も交易を通じて大陸からさまざまな文物を取り入れ、鎌倉、江戸時代には東が日本の中心になっていきます。
軍隊になっても関東軍として歴戦を重ね、太平洋戦争では陸軍の中心として国威を振るいます。鎌倉時代では武士が政局を始めて握り、江戸時代は京の公家社会に対抗して幕府が登場し、最も日本で安定し日本の文化が花開いた一時代です
単に西、東と言う事ではなく、この東日本の歴史は日本人の性格や体質に色濃く残る何かがあるのではないでしょうか?さらに言えば縄文人や、その後の高句麗人との混血=東の古墳人が作り出した西とは異なる価値観の文化、資質が残っているのではないでしょうか?
一般に日本史は西日本の大和朝廷中心に描かれ、東にあったもう一つの日本の事はほとんど日本史に登場しません。例えば、教科書に出てくる征夷大将軍。最初の坂上田村麿は東の日本を駆逐する為に大和朝廷が体勢を組んで攻め込んだその将に与えられた役職で英雄扱いを受けています。対して最後まで抵抗した東国の武人アテルイは鬼と称され、罪人として処刑されます。西は正義で東は悪という図式が歴史上でも殊更に強調される訳です。
今シリーズではこの東の日本に焦点を当て、正史に拠らない史実を押さえなおし、東にあったもう一つの日本の存在を浮き彫りにしていきたいと思います。
このシリーズのテーマ設定を行ないます。
1.縄文晩期の関東は空白地だった?
2.関東に大王がいた
3.大和朝廷が恐れた東国・利用した東国
4.防人に見られるその後の東国の位置づけ
5.大和とアテルイとの戦いは何だったのか?
6.日本書紀が東国を書かなかったホントの理由とは
7.東国の玄関口「尾張」の解明
8.武士の起源は東にあり~平将門の乱をどう見るか?
9.江戸時代が示す東国の存在と日本の源流
10.明治から始まる東国の後退と次代の反転

これらのテーマは中心となる書物も教科書もありません。
市井の研究家の書物を頼りに、またこれまで積み上げてきた当ブログの追求をベースに仮説に仮説を積み上げ、これらのテーマの解明に取り組んで行きます。
どうぞ、よろしくお願いします。

投稿者 tano : 2013年03月17日 List  

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