日本人の起源11~日本ではなぜ権力が共存したのか? |
メイン
2011年01月19日
モンゴロイドの歴史2~スンダランドの水没→南方モンゴロイドの大移動
前回に続いて、モンゴロイドの歴史です。今回は、最終氷期を終えてから約1万年までの期間を扱います。
狩猟採集生産を営んでいた始原人類は、気候変動がもたらす植生、動物たちの生息域の変動に大きく影響を受けたと考えられます。初期の北方モンゴロイドが南アメリカまで進出して行ったのも、まさに決死行だったことでしょう。
最初に、南方モンゴロイドの拡散に大きな影響を与えた気候変動をおさえておきたいと思います。
最終氷期の最盛期は現在よりも10度以上寒かったようです。その結果、数十万立方kmといわれる大量の氷がヨーロッパや北米に氷河・氷床として積み重なりました。そして海水を構成していた水分が陸上の氷となったため、地球上の海水量が減少、世界中で海面が約120mも低下したそうです。そして温暖化によって逆に海水面が上昇し、陸地が海没していくことになります。
氷河期の間、北方モンゴロイドは北方と南方を行ったり来たりしながら、移動し続けていましたが、温暖湿潤で豊なスンダランドのモンゴロイドは移動する必要がなく、人口増加の中にあっても、贈与関係等で、友好関係を結んでいたと考えられます。しかし、そのような平和なスンダランドを温暖化故の海没が襲うと、人々は四方八方に散らばっていくことになりました。
●Y染色体亜型の世界的分布
http://www.rui.jp/docs/link/zukai20110105-3.pdf
温暖、寒冷等を考慮し移動ルートを想定した
■温暖化→スンダランドの縮小・水没
温暖化の影響で極地の氷が縮小していくにつれ、海水面が上昇し、広大な陸地であったスンダランドが1.4万年前頃から水没し始める(6000年前には完全に水没し、東南アジアの海岸線が現在の姿に)。それに伴って、この地で繁栄していたスンダ・モンゴロイドが拡散していく。
1.南アジアを通って、インド亜大陸へ。(インド亜大陸の原モンゴロイドと混血→ドラヴィダ人に)
2.ガンジス川を遡上して、タリム盆地からモンゴル高原へ。【Dスンダ・モンゴロイド】
3.海岸沿いに江南地方から中国全域に移動。(シナ・モンゴロイド×中亜モンゴロイドと混血→【原中国人】に)
4.北東の東シナ海を航海して、中国・江南地方~日本列島へ。(江南のシナ・モンゴと混血、日本列島の中亜モンゴ×北方モンゴと混血)
5.南方のオーストラリア大陸へ。(オーストラリア大陸に先住していたオーストラロイドと混血→アボリジニに)
6.メコン川などの大河を伝って、チベット高原からタリム盆地へ。(1万年前にはアルタイ山脈~モンゴル高原に到達し、新モンゴロイドO3に)
しかし、温暖期とはいえ「寒の戻り」という現象はあり、しかも、最終氷期を終えて初めての急激な短期寒冷化期である、ヤンガードリアス期は、再びモンゴロイドの南下をもたらしました。それ以前は、南方モンゴロイドと北方モンゴロイドは同じモンゴロイドとはいえ全く接触なく個々に発展してきたのですが、この段階は南方モンゴロイドはかなり熱帯に移動していたため、北方から南下していったモンゴロイドたちは南方のモンゴロイドたちと接触し、融合していくことになります。
■1.3万年前~1.15万年前の急激な短期寒冷化期(ヤンガー・ドリアス期)(-7℃~-8℃)
1.3万年前から急激な短期寒冷化期(ヤンガー・ドリアス期)に入る。アジア大陸内部(中央アジア)では乾燥化が進み、砂漠が拡大した。
○バイカル湖地域
急激な寒冷化の影響で、バイカル湖付近に留まっていた中亜モンゴロイドが東回りでアムール川下流域に移動していった。一部はさらに南下し、中国や朝鮮半島、日本列島にも移動したと考えられる。この時期、シベリアは三度無人の地になった。
○Dスンダ・モンゴロイド
モンゴル高原のDスンダ・モンゴロイドが、急激な寒冷化の影響で、チベット高原(D1,D3)と日本列島(D2)に移動していく。それぞれ、チベット族、縄文人の主構成員に。
このように、温暖化→スンダランド海没が南方モンゴイドの北進を促し、その後の急激な寒冷化・乾燥化が再南下をもたらしたというわけです。アジア全域に広がったモンゴロイドの移動は、このあと繰り返される温暖化、寒冷化によってさらに加速されていきます。(次回に続く)
●モンゴロイドの移動図
http://www.rui.jp/docs/link/zukai20110105-1.xls
投稿者 staff : 2011年01月19日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2011/01/1186.html/trackback
コメント
投稿者 tano : 2011年5月22日 10:05
このような受け入れ体質である日本人の自然災害観とはどこからでてくるのでしょうか?諦めの観念?それとも考えてもどうしようもないから、とりあえず、受け入れるしかない?神の国だから信じれば救われる?
この歴史観とか自然観とかの認識群は、私たちの将来を担う上で、重要なものです。現在は、観念でしか捉えられない目に見えない危機(経済危機や原発危機、環境破壊や社会構造の大転換)が迫っていますが、日本人のこの状況を乗り越えられる可能性はどこにあるのか?を知りたいです。
唯一、縄文気質は、事実存在し、期待応合の成立する世界を私たちは経験しています。しかし、現在、想像するものとは比べ物にならないくらい、想像を超えた繊細で鋭敏で感受性の強い自然の摂理にのっとったものであったのかも知れません。
この縄文体質という事実観念に可能性があると私は思います。それは、祈れば雨が降る、あまごいのような極限の不全状況という現実と対峙し、その突破の方法を先史の人類はもっていたのかも知れません。
社会性・観念性のない日本人と言われますが、未曾有の現実を今目の前にしてその可能性を見てみたいと思います。
投稿者 2310 : 2011年5月29日 08:42
よくまとまっていて読み応えありました。
確かに日本の独自性は環境に規定されていますね。
しかし人類自体が存在しているのが過酷な環境やそれを潜り抜けるための奇跡の連続だったわけですから、日本人の環境への対応力、その帰結としての自然への感謝や同化といったものは、ずっと大昔から人類が繰り返してきた叡智の結晶なんでしょう。
>一般的に、日本人は自然を畏敬の対象と捉え、西洋人は自然を対立・克服・支配する対象として捉えていると言われますが、一体、なんで西洋人と日本人とでこのような自然観の違いが発生するのでしょうか
この違い、楽しみにしています。