「南から見た縄文」 スンダランドからタヒチまで、太平洋に広がる大語族、オーストロネシア語族(≒マレーポリネシア語族)!! |
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2011年03月17日
【中央アジア】オアシス民の展開と遊牧民との相互依存
前回は中央アジアの北部の草原地帯と山間牧地で、夏営地と冬営地の間を季節移動する遊牧民についてみてきましたが、今回は南部のオアシス地、農業を主とする定住民(オアシス民)の展開と、オアシス民と遊牧民の関係についてみていきたいと思います。
「ほろほろ人生旅PHOTO日記」より |
中央アジアの北部が、草原の民である遊牧民の活動の舞台であったのに対して、南部はオアシスの民である定住農耕民の舞台でした。
オアシスとは沙漠の中で水を得られる地域を意味しますが、より正確には、沙漠で水の得られる地域で、その水を積極的に利用して人間が居住できるようにした地域を意味します。
では、早速、オアシス及びオアシス定住民について見ていきましょう。
その前に応援よろしくお願いします。
【オアシスの基本構造】
中央アジアにおけるオアシスは、高山の雪解け水を集めて流れる大小の河川の水を灌漑水路や貯水池によって最大限に利用することによって成立しています。この他にも泉水を利用したものや、人工地下水路(カナートあるいはカレーズと呼ぶ)を利用したものがありますが、比較的規模の大きいオアシスは河川の水を利用したものが多いようです。
中央アジアのオアシス地帯には、大小さまざまなオアシスが存在していましたが、それらの基本構造は、オアシスの中央部には、バザール、神殿・寺院を中心とする市街地があったようです。
バザールは市街地周辺の農村部で生産される農作物の市場とともに、鍛冶屋、大工などの職人も集まって商業のみならず産業の中心地となっていたようです。また、神殿・寺院は住民の精神的生活の中心地であり、人々が定期的に集まる場所であったからこそ、バザールもそれらに隣接して設けられたと考えられています。
市街地の周辺には農耕地帯が広がっていました。市街地に最も近い一帯では市街地から得られる下肥を利用した野菜や果実を栽培する集約的な果樹園が、その外側には小麦、木綿など、さらにその外側に高粱、きびなどの比較的肥料を必要としない作物を栽培する農地が広がっていたようです。
中心となる市街地とその周辺の農地から成る独立した生活圏というオアシスの基本的な構造からみれば、自給自足の生活が可能なようですが、乾燥地帯での常在的な水不足のため農地は極めて限定され、草原・沙漠に点在していた農地は狭小であったことから、少しの気候変動が生じただけでも、生活に与える影響は大きかったようです。
【オアシス都市の誕生と展開】
[拡大図] |
中央アジアのオアシス地帯で、最初の農耕集落が形成されたのは、コペト・ダーの北麓、現在のトルクメニスタン共和国のオアシス地帯です。ここでは8000年前以降にアナウ、ナマズガ・テペ、ジェイトゥンといった彩文土器を伴う初期農耕集落が形成されます。
この中央アジアにおける初期農耕集落は、古代オリエント(西アジア)から農耕が伝わったとされ、この文化は5000年前以降、ホラズム、フェルガーナなどの諸地方へも伝播していきます。
そして、3500年前以降になると、ムルガブ川に沃されたメルヴのオアシス地帯などに、初期農耕文化とは異なる、城壁を伴った都市的な集落の形成が見られ、3000年前~2700年前にはこれらの集落に大規模な灌漑網が完備されるようになります。
(参考:ゴヌール遺跡http://www.nikkei-science.com/topics/bn0701_3.html)
つまり、この頃には中央アジアのオアシス地帯には、すでに堅固な城壁と、大規模な灌漑網を持った、いくつかのオアシス都市が誕生していたと推定されています。
城壁の存在は争いの結果であると思われますが、実際史実として、2500年前頃、シル川以南の地はアケメネス朝ペルシャによって侵略・征服されています。
沙漠の人工島のようなオアシスは、夫々の置かれた自然的条件の違いによって、自ら独立する傾向を持っていることや、度重なる外国人による侵略と支配があったため、オアシス地帯で強力な統一国家が形成されることは稀であったようです。
つまり、オアシス定住地帯における国家とは、統一国家ではなく、基本的には一つのオアシス都市が周辺のオアシス都市を支配下におく、オアシス都市連合体を意味したようです。
オアシス都市連合体は、他のオアシス都市連合体を支配下に収めるだけの力がなく、そのため、外国勢力の侵入に対しても、オアシス地帯の住民を総結集して、これに当るという体勢をとりえなかったようです。
【草原とオアシスの対立・抗争】
城壁の存在はおそらくオアシス都市と遊牧民の争いが契機となり建造されたものであると思われます。
もともと、中央アジアのオアシス地帯は紀元以前から絶えず異民族の支配下におかれるという運命であり、西方の西アジアの諸勢力に加え、東方の中国、そして北方の遊牧民という西・東・北の三方面から異民族の侵略に直面していました。
なかでも北方の遊牧民とは生活圏が隣接していたため、中央アジアの歴史を通じて恒常的に侵略が行われており、政治的な支配(遊牧民)と被支配(オアシスの民)の関係にあったようです。
「ネットで漂流 宝島さがし」より |
遊牧民の国家では、氏族・部族といったその社会組織そのものが、直ちに軍事組織として活用され、日頃彼らの常用した馬が、当初最高の機動力を与えたとされています。
これに対して、オアシスの民は都市の規模もさして大きくない上に、それらを統一した国家も出現することも稀であったため、確固たる軍事組織と、最高の機動力、それに国民皆兵的体制を備えた遊牧民の社会が、軍事的にオアシス社会に優越したのは当然であったようです。
しかし一方で、経済力という面では農耕を基盤にした定住オアシス社会の優勢は明白であったようで、それに加えて、オアシス都市を結ぶ東西交通路は、東西貿易の幹線路であり、この路を通過する隊商によってもたらされる富もまた、オアシス社会の優越性を増加させたようです。
このような状況下では、軍事的に優勢な遊牧民が、オアシスの富に目をつけるのは必然であり、ここに両者の政治的な支配・被支配の関係が成立するようになります。
【草原とオアシスの相互依存】
両者の関係は対立・抗争(支配・被支配)を超えた関係を築いていきます。
まず、支配者である遊牧民は、オアシス(支配地)の特産物である稲や粟など食糧や銅や鉄などの鉱産物、それに加えて、オアシス地帯を通過する隊商からも通行税などを徴収します。
これだけを見るとオアシス民は収奪だけされているように見えますが、実はそうではなかったようです。
オアシスでも、ある程度の家畜は必要で生活のために有用ですが、狭い敷地内で飼養することは困難となります。小さな農耕オアシスが最小限度の自給自足の経済を営むことは不可能ではありませんが、大型のものになると、畜産物を自ら生産するよりも、遊牧民からの交易によって確保する方がはるかに有利となります。
このようなオアシスでは獣皮・獣毛を遊牧民から買取、これを加工製品として他のオアシスや遊牧民との交易に使用していたようです。また、隊商が交易に出向く道中の安全を確保するのも遊牧民の軍事力であったようです。
つまり、オアシス民は遊牧民から畜産物や軍事力の後ろ楯を得ていたのです。
このように遊牧民とオアシス定住民、とりわけ商人との関係は、平常時においては、むしろ密接な共存・相互依存、すなわち相互補完的な関係にあったと考えられます。
そして、この官営がもっとも円滑な場合には、遊牧民の間にはオアシスの富が流れ込み、その富を背景とした強力な軍事国家が成立します。
強力な軍事国家が成立すると、その軍事力を背景したオアシス地帯の商人たちの活動は、ますます活発になり、オアシス地帯にも莫大な利益をもたらされてようです。
投稿者 yoriya : 2011年03月17日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2011年7月20日 00:04
tanoさんコメントありがとうございます。なるほど狩猟採集の移動民は基本的に受け入れ体質であること。確かにどこに行っても適応しなくてはならない、逆にだれであれ基本的に受け入れるという意識になるのは当然かなと思いました。
ただ、tanoさんも指摘されているように、東日本の縄文人は長く慣れた落葉樹林から出て行くことはありませんでした。寒冷化の危機に積極的に、西日本の照葉樹林対や外来文化に融和していったのだろうと思った次第です。
投稿者 fwz2 : 2011年8月2日 23:00
Fwz2さんわかりやすい記事をありがとうございます。
最後の「受け入れ体質」のところで一つ切り口を発見しました。元々縄文人は採取文化で定住はしていましたが、私はかなり移動していたのではないかと思います。そしてこの受け入れ体質とは移動体質と同義なのではないでしょうか?
というのも、縄文ネットワークといわれるようにかなり遠方まで、現代人が思うよりはるか広い範囲に同一の土器や祭祀の文化が同時代に広がるという状況が縄文時代を通してよくありました。これは、贈与の関係だけではなく、実際に人が環境の変化に応じて移動していった事を表しているのではないかと思うのです。また日本語の祖語は縄文時代に既にできあがっていたと言われています。これは言語の地域差が小さくなり、比較的遠方の北と南の縄文人が同一言語で話していたことを示しています。文化的交流だけでなく、長い年月を通じてかなりの集団の交流、混血があったものと思います。そしてそれは縄文時代を通してかなり人が移動し、互いに言語や文化などを共有できていた事を示しているのではないでしょうか。
だから、縄文時代ははるかに移動した文化であったと私は思っています。移動は季節ごとでもあったでしょうし、何世代か毎に住居を移転した可能性もあります。火山の噴火や地震、台風の災害などでより安全な地に移動した集団もいたでしょう。そんな中で縄文晩期とは大いに人が動いた時代だったのではないでしょうか?
移動するということはあたらな環境に適応する。新たな文化を受け入れるという体質がその過程で育まれていった可能性があります。
その意味で、縄文晩期の移動は縄文人にとっては寒冷化というきっかけで新たな環境を求めて移動したのでしょう。そしてあたらな地で、あらたな文化に出会い、適応したのが後の弥生文化の担い手となった縄文人たちだと思います。
しかし、元々森の文化、最終の文化で適応していた縄文人が森を捨てて、栽培の西の文化に適応したのはかなりの変化だと思います。その意味で、移動しても適応できなかった縄文人もたくさんいたことでしょう。それが縄文晩期の人口の激減に現れているのだと思います。