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2011年01月03日
寺子屋の教育とは?~明治以降の学校制度との比較より考察
最近「寺子屋」教育の話をよく耳にする機会が増えました。
寺子屋とは、武士の子弟が中心であった寺院の教育に対し、庶民を対象にした、「読・書・算盤」を中心に、生活に必要な実用的知識を身につけさせる、民間の教育機関でした。
この寺子屋教育については、当ブログや、応援サイトである「るいネット」等にもその内容が多く投稿され紹介されています。
今日は改めて寺子屋教育とはどういったものなのか、それを明治以降の教育制度と比較しながら見てみたいと思います。
いつものように、応援よろしくお願いします。
まずは、当時の寺子屋でどんなことを、どのような方法で教えていたのかを見てみたいと思います。
寺子屋の学習内容(★江戸時代の寺子屋の暗誦教育より)
学習内容は、時代により地域により家業によって多種多様であった。とはいえ、圧倒的多数は、なんといっても「読み・書き・算盤」であった。なかでも手習いにはどの寺子屋も時間をかけ、手習いは中核であった。一人一人が個別に指導を受け、練習をしては師匠の前に進み出て清書をし注意を受け、また自分の机に向かうといった形式であったようだ。
師匠は頃合を見て一人の寺子を呼び出し、目の前で書かせ、朱筆を加えたり、運筆の順序、言葉の意味内容を教授したりした。師匠は一人一人の寺
子の年齢や進度、学力、性格、興味、家の職業などに応じて、手本の内容を変えるなど細かな配慮をして指導した。手習い指導のとき師匠は「倒書」といって、さかさまに文字を書いてやらなければならない。「倒書」の技術に熟達しなければ寺子屋の師匠とはいえなかった。
寺子屋における手習いは、単に文字を上手に書くことだけが目的ではなかった。手習いで文字を学び、手本を読むことで様々な知識を習得した。手本の内容は、日常の躾、礼儀作法、教訓に至るまであった。この意味で、手習いは、近世庶民の子ども達の人格形成の根幹を支えていた修身教育にもなっていた。
寺子屋の学習形態
寺子屋は何人いても一斉授業ではなく、また年齢の異なる者同士が一つの部屋で一緒に勉強していた個別カリキュラムによる個別指導が行われていた。個別指導の対極にある一斉指導の少なさに特徴がある。師匠は、みずからの教職経験にもとづき、寺子各人の興味・能力の程度を考えながらさまざまな指導内容の工夫を試みつつ指導した。
もちろん一斉指導が全くなかったわけではない。しかし、これは多くの場合、九九の唱和など、音読による発声練習などの場合だけで、通常の手習い、素読(読み方)練習は個人教授であった。
注)さらに追加すると、基本的に男女は別学であったようです。というのも、そもそも男と女では学ぶべき中身が異なったからというのがその理由です。
(★江戸の教育~男は男の道を学び、女は女の道を学ぶ場より)
以上を見るだけでも私達が知っている明治以降の教育方法と、かなりの部分で違いがあることが分かります。
(左:「日本の近・現代史の問題点」、右「日本教育史⑧」より)
○個別教育と、一律教育
寺子屋:寺子屋は上述したように、男女別学、個々人の習熟度に合わせて教師が生徒一人一人に異なるカリキュラムを与え、異なる勉強をさせています。
明治以降:基本的に男女、及び学年ごとに一斉授業。皆同じ教科書を使い、同じカリキュラムで学びます。
○庶民の生活に必要な実用的知識と、立身出世の為の知識
寺子屋:庶民の実生活に必要な、実用的知識の習得が目的
明治以降:国の「近代化政策」に乗り国を強くするため、国にとって都合のよいことを教える教育となり、官僚の任用制度と結び付けることで「立身出世」の為の勉強となった。
○誰の為の、何のための教育なのか
上記を見て明確なように、
明らかにその目的が異なります。しかも、一律のカリキュラムで進めれば、当然ついてこれない子供が落ちこぼれになると言うことを考えても、真の平等性はどちらにあると言えるのか。社会の役に立つ大人を作り出す事を考えた場合、どちらの方がより社会にとって好ましいことなのか。
(「大村市HP」より)
かつての日本人の勤勉性によって、世界でも例をみないほどの急速な成長を遂げた日本が、現在の世界的な経済危機や不況の嵐を乗り切ってゆくためにも、私達は教育と言うものの在り方について、もう一度見直してみる必要があるのではないでしょうか。
投稿者 saah : 2011年01月03日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2011年5月5日 18:16
法律とは利権闘争である。
これは明治時代から変わらないようです。
tanoさんの言葉になるほどと思いました。
法は利権闘争だから普通の人には必要がないのですね。そうなると国会は誰のためにあるのでしょうか?
又、最近の生肉の話しでは以下のように国が自己保身のために基準を作っている。以下は、http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=250923からの引用です
厚生労働省が「生食用食肉の衛生基準」を定めているのに、それを守らず、加熱用肉を生食として販売した焼き肉チェーン店が責められています
厚生省が実態調査を始めた2008年以降、この基準を守った生食用の牛肉は一切出荷されていないそうです。
結局、食中毒が騒がれたから基準は作ったけど、厳しすぎて誰も守らず、店ごとに独自の基準で、安全を確保して販売していたというのが実態だったようです。
誰も守らない基準なんて、役人の言い訳でしかない。
なにか問題があったときに、いかにして責任を回避するかしか頭にないお役人の無責任体質をこれほど如実に現している事件はないと思う。
引用終わり
今のお上は、普通の人には理解出来ないですね。
おかしくなったのは明治以降に原因がありそうでうね。
投稿者 sakashun : 2011年5月6日 11:11
生肉のお話、いつも思うのですが、役人や政治家は人が死んで犠牲者のことがマスコミに出るとあわてて法律を作るようですね。「危険だ」「危ない」といくら警察に行っても、道路標識や信号機も、何人か死んではじめて慌てて作ります。結局、犠牲者が出来るまでは「予算がない」とか理屈を付けて手を付けない・・・こんな行政や政府に期待しない方がよいのでしょうかな?原発問題もまったく同じのようで、メトルダウンや再臨界で大爆発が起きて初めて「原子村」の学者や政治家、企業経営者が、自分が死ぬのが怖くなり、大慌てで根本的な対策が始まるのでは?と諦めています。私たちが住んでいる「首都圏」もそろそろ危ないのでは?私のような「終末期高齢者」は、このまま死んでも悔いはありませんが孫達の将来が心配です。
投稿者 あっくんじいちゃん : 2011年5月17日 10:30
あっくんじいちゃんさまへ
コメントありがとうございました。
>結局、犠牲者が出来るまでは「予算がない」とか理屈を付けて手を付けない・・・こんな行政や政府に期待しない方がよいのでしょうかな?
→確かに、イタイイタイ病や水俣病なども被害が大きくなってから国が認めて対応をしてきた歴史を彷彿させます。人災と国の歴史を探れば、同じ過ちを繰り返している、という事実に気付くはずです。
>メトルダウンや再臨界で大爆発が起きて初めて「原子村」の学者や政治家、企業経営者が、自分が死ぬのが怖くなり、大慌てで根本的な対策が始まるのでは?と諦めています。
→事故当時の生々しい危険な状態の話が2ヶ月後に公開されています。恐らく、やばい状況が加速し、隠していると、自分の地位がおかしくなるので発表するのでしょう。お上の事実の隠蔽体質は変わらない、と思っています。馬鹿は死ななければ直らない!のではないしょうか。(期待出来ないということです)
>私のような「終末期高齢者」は、このまま死んでも悔いはありませんが孫達の将来が心配です。
→大人は子供の未来を考える=与えるものだ思って来ました。しかし、これでは過去の事実は語られずに安全なことのみを語ることに追い込まれてゆきます。結果、問題解決の事例がないので何も考えない日本人が生まれてきたのではないかと思います。
では、どうする?
⇒現実の問題をしっかり語り継ぐ大人が増えればよい。例:おじさんが孫に語る。そして、あなたの子供(=孫の親)も学んで、子供にかたる。子供は何が事実かを考える。
昔の村落共同体では、子供は子大人とも呼ばれていました。実は、学ぶ土俵は同じだったのです。今、そこを再生することが我々に出来る大きな仕事だと思います。
投稿者 匿名 : 2011年5月21日 21:50
平時には社会秩序の為に必要な法も災害時には逆に復興を妨げる障害になる。これは法治国家としての宿命でもありますが、日本のように度々災害に見舞われる国家は、本来西洋的な法の施行とは別の緩やかな取り決めが必要ですね。例えば災害時には直ぐに法を改正できる超法規の仕組みがあるなど。
今回も原発の安全について地元(福井県)が安全性への法の見直しを要求し、それに対して国が答えた回答がそのまま当てはまります。
安全基準の見直しには時間がかかるので、しばらくは状況に応じて運営していく。つまり法は直ぐに変えられないので、安全に関しては我慢してほしいというような内容です。
国土や人命を守るための法のはずが、結局は法の為の法でしかなかったことを示しています。法治国家は放置国家になっているのが原発を経て迎えている日本の実態のようで・・。
sakashunさんの記事にありました。
明治以降は江戸時代の「お上」と「村落共同体」の緊密な関係とは異なり、法治国家として、法律が決まらなければ動かない。そして、法を決める(議会が承認する)のは、本当に必要としている人のためではなく、軍閥、政治閥、産業利権が絡んだ資金獲得(利権獲得)の長い抗争で決まる。
法律とは利権闘争である。
これは明治時代から変わらないようです。