縄文時代の交易ネットワーク拡大の推進力とは? |
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2009年12月07日
素人の創造シリーズ2 ~素人は、全てを生み出す事が出来る2
素人の創造シリーズ1で、過去を振り返り 素人が生み出した創造物について考えましたが、シリーズ2では、現在の 課題と状況について考えてみましょう。
3.現代の最大の課題は、社会統合(同類闘争=共認闘争or評価競争の止揚)であるが、この新課題に対しても、大衆はまず社会的な解脱共認の場(=テレビ)を形成し(但し、それらは与えられるだけの場であり、共認支配の場とも成っている)、次いで、プロ≒統合階級に失望した素人の参加充足の場(=インターネット)を形成しつつある。(但し、未だ評価共認の形成さえ出来ておらず、規範共認の形成に至っては全く出来ていない。従って、充足度が低く、本源派や普通の人の参加度は低い!)
●共認動物の最大の課題は、同類闘争である。従って、(敵が接近した時の真猿集団に走る極度な緊張と注視が象徴している様に)『人々が、何をしているのか?今、何が起きようとしているのか?』(評価軸は、敵か否かor益か否か)という(社会)探索欠乏が強い引力を伴って生起するのは当然である。
注:ネット拡大やサーファーの原動力になっているのは、これである。
●今、素人は、ネット上で様々な可能性を探索している。その一つが上記の「注視すべき人(活動)や情報」を探索することであり、もう一つがネットの(有益なツールとしての)可能性の探索である。前者は中身であり、後者は器であって、当然両者は連動している。現状は、その中身が(従って器も)混沌としており、ゴミ情報の山と化している事は、上記3の通りである。
今、まさに素人の私が、ネットで「注視すべき人や情報」を探索しながら、「役に立つサイト」はどれであるか探索しています。
投稿者 ryou : 2009年12月07日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2010年2月8日 23:33
コメントありがとうございます。
古代の支配者は、比較的狭い範囲の中に(信長、竜馬などの近代に近い時代と違って)王位継承権のある人間が複数いた。一族の中といってもいいくらいの範囲だと思います。継承者をあらかじめ決める確固たる制度も無かった。
政務能力に長け、人望も資質もある人物が、大王位を目指して、勝ち上がっていかなければならなかった。
金メダルを狙うために貪欲に練習しているスポーツ選手に似ているかもしれない。
そういう意味で、自由に大胆に…という表現を使ってみました。
また、初めの方にある「心理」についてですが、王権を手中に収めるために原始信仰と、古墳が密接に繋がっているとも思っています。このあたりを、もっと考察していきたいと思っています。
投稿者 milktea : 2010年2月9日 15:18
>情報が正確に伝達しにくい時代に、王権をめぐる周辺の人々のものの考え方って、真実を知る上で重要なんじゃないかと、ずっと思ってました。<
歴史で書かれているのは多くは時の権力者の方の記述ですよね。
一方で大多数の庶民はどうだったのか。ここを比較しながら調べてみると面白いと思います。
あるいは、権力者たちがなぜ
>政務能力に長け、人望も資質もある人物が、大王位を目指して、勝ち上がっていかなければならなかった。<のか、実はその理由を追求することが、歴史の”事実”に近づく道なのではないでしょうか。
投稿者 火の鳥 : 2010年2月9日 21:54
火の鳥さん、こんばんは
コメントありがとうございます。
おっしゃる通り、かなり困難な作業ですが、一般庶民の心理を知ることは、重要であると思っています。
またこの国の大王位の移行は、かなり特殊です。葛城・蘇我・藤原と、王権に寄生して存続した豪族が、強い権力を維持していたこととも関係があると思っていますが、そのあたりを、追求していきたいと考えています。
投稿者 milktea : 2010年2月10日 21:36
milkteaさん、始めまして。2310と申します。
多くの歴史研究家の文献を見ると、どうしても個々の心理にせまっているとは思えないんですよ…
という感想は私も持っています。それは、やはり、素人が書いたものではないからかな?とも思っています。私たち人類は、共同性を重んじで今の繁栄があると思っています。その中でも、多くの真っ当な文化は、対象との同化から生まれたのだと思っています。歴史を考える上で、やはり、その事実に迫る必要があると感じています。今後ともよろしくお願いします。
投稿者 2310 : 2010年2月10日 23:47
コメントくださった皆様、ありがとうございました。
わたしは、つい最近このブログの会員になり、ご挨拶がわりの投稿をさせていただきました。
歴史の勉強をしていく時、いつも気になっていたのが
この「心理」だったんです。小さな事のようですが、例えば親が子について考える、一夫多妻の中、女性が配偶者について考える。この日常的な事柄でさえ、恐らく現代とは違うでしょう。支配者層になればなるほど、現代に生きるわたし達の心理とズレがあるのではないか、そのように漠然と感じていました。もちろん漠然と、です。笑
今後、テーマを決めて記事を投稿することになるかと思いますが、その際、この「心理」を充分意識しながら
取り組んでいきたいと思っています。
どうぞ、よろしくお願いいたします。
投稿者 milktea : 2010年2月11日 21:19
はじめまして。
>原始宗教、道教、儒教、仏教…どんなふうに人々は摂取して、それを反映させていたのだろう…
確かにこの疑問面白いですね。
宗教はその時々の人々の欠損部分を補う為に存在したのだと思います。しかし大きく分けて原始宗教と道教は目の前の現実である自然の摂理を見つめていたのに対して儒教、仏教は人や支配者に翻弄されたやりきれない現実を対象としています。儒教は宗教というより規範や規律に近い部分はありますが・・・。
時の宗教家はその不全に対して光を当て、答えを導き出しました。仏教のあの世という概念はそこから生まれてきたのだと思います。
>恐らくこの時代、家族の繋がりよりも、個を重視したような感想をわたしは持っているんです。
自由で、わがままで、おもしろい位大胆で…
これは支配者側の論理ですね。
milkteaさんがこのように書かれる背景を知りたいです。織田信長とか、秀吉、最近では坂本竜馬などもこの範疇に入るのでしょうか。しかし彼らが重視したのは個だったのでしょうか?家族や集団を超えた何か大きな対象だったように思います。