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2010年02月06日
私権文明を問い直す シリーズ3 今日の文明は掠奪闘争が生み出した
『今日の文明は全て略奪闘争によって生み出された「文明」である』。
科学技術が進歩して、見掛けが変わっても文明の本質は変わりません。これから紹介するのは、「るいネット」の「実現論」の引用ですが、私たちが漠然と抱く「文明」の本質が何なのかを炙り出しています。
例えば現代の「市場社会」は強いものが支配するための仕組みです。自由という観念も強者を正当化する観念です。戦争に到っては、略奪そのものです。市場の仕組みは考えて見れば掠奪闘争を下敷きにしているだけです。現代文明が、環境破壊や経済破綻、精神破壊という「人類の危機」を招いているとしたら、現代文明を根本から問い直す必要があるのです。
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私権文明を問い直す(東洋と西洋)
教科書が「人類の文明発祥の地」として教えるメソポタミア・エジプト・インド・中国は、全て掠奪闘争が繰り広げられた場所であり、それらの国家は、全て掠奪闘争の覇者によって作られた国家である。
つまり、今日の「文明」は、全て掠奪闘争によって生み出された文明である。しかも、性闘争や私権闘争や掠奪闘争=戦争、あるいは環境や集団や精神の破壊、更には権力による支配・抑圧・疎外など、人類の罪悪と言われるものの全ては、性的自我(=邪心)を源とする性闘争→掠奪闘争→支配国家が生み出したものである。
もちろん、性闘争→掠奪闘争→私権統合国家の流れが人類にとって必然の流れであり、かつこの性闘争・私権闘争系の「文明」が今後も更に進化してゆけるものであるなら、その流れに対して主観的に善悪の判断を下しても無効であり、無意味である。だが、この「文明」の帰結が人類滅亡であるとしたら、人々が戦争や破壊や権力を罪悪視し続けてきたのは基本的には正しかったのであり、それどころか、この「文明」が肯定視されてきたその根幹部そのものの是非が改めて問われることになる。
この私権「文明」は、人類を含めて全ての生物がその中で育まれ、進化してきた本源集団を破壊した上に築かれている。しかも、自然の摂理から大きく逸脱したその私権原理そのものが、今や機能不全に陥り、人類滅亡の危機が迫ってきた。とすれば、本源集団を破壊して終ったことが、人類の最大の誤りであった可能性が高い。
ところが、西洋と東洋では本源集団の破壊度に大きな差がある。従って、この「文明」を見直す上で、西洋と東洋の違いがかなり重要なテーマとして浮上してくる。
人類最初の掠奪闘争がイラン高原の白人(コーカソイド)遊牧部族によって引き起こされ、それがモンゴル高原の黄人(北方モンゴロイド)遊牧部族に伝播していったことは既に述べたが、両者はその前身も、掠奪闘争の在り様も大きく異なっていた。
コーカソイドはもとから狩猟部族でそれが遊牧に移行した人種であるが、北方モンゴロイドは、南方の平和な採集部族(南方モンゴロイド)が北方に移動して狩猟・遊牧に転じた人種である。乾燥期に入った頃、イラン高原にはもともと農耕・牧畜・遊牧などの諸部族が混在していた。しかも、イラン高原は急速に乾燥していったことにより、極めて深刻な食糧危機に陥った。
従って、遊牧派生の邪心集団による掠奪闘争は極めて激しい容赦の無いものとなり、皆殺しが常態となる。
従って、仲間を皆殺しにされて一人二人と生き残った者たちは憎悪と警戒心の塊となり、共認基盤を失って終ったことと相俟って、全面的にかつ強く自我収束する。そんな者たちが生き延びる為に寄せ集めの新たな掠奪集団を形成しては他部族を襲うという形で、数百年に亙って掠奪闘争が繰り返された。
そんな生き残りの末裔が、西洋人である。
それ故に、本源共認の基盤を根こそぎ解体して終った西洋人は、本源的な共認収束力≒集団収束力が極めて貧弱で、自我収束が極めて強い。しかし、自我だけでは共認を形成できない。そこで彼らは、専ら自我に基づく本源風の架空観念に収束し、架空観念で共認を形成する。
西洋と東洋の違いが「本源集団」の破壊度によって規定されるという認識が注目すべき点です。
教科書で習ってきた知識では得られない歴史構造の本質が見えてきます。
そして、「自我」による「”本源風”の共認」の限界が「架空観念」を生み出したと理解すると、キリスト教や儒教など、世界の宗教の背景も浮き彫りになりそうです。
投稿者 hiroshi : 2010年02月06日 TweetList
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コメント
投稿者 脱宗教家@ : 2010年4月19日 23:38
脱宗教家@さんコメントありがとうございます。
私権社会は私権を獲得することが第一課題です。他人を騙してでも人よりも多く私権を獲得した者が勝者になります。いつ騙されるかわからないから警戒心も生まれます。そして自我が正当化されます。自我とは他人から与えられない評価幻想です。
おれはそんなんじゃない!という思いが他者否定に向かいます。これは現代のおじさん世代の考え方ですが、こんな考え方だと存在不安になってしまいます。
古代の身分制度の奴隷や下層民は、私権獲得の可能性がないことを追共認するのが私権社会の姿です。私権追求を認めているのに私権が得られないのは存在不安そのものです。
それでも、共同体が残っていれば、共認充足は得られますが、共同体が破壊されていくと、共認充足が得られなくなって、
存在不安は拡大します。
原始共同体には、自我を正当化する私権意識は存在せず、集団内の仲間との共認充足が羅針盤となっています。集団内では役割があり、みんなの評価も得られます。よって、存在不安に陥ることなど、決してなかったはずです。
投稿者 ちわわ : 2010年4月20日 22:38
信じますか?◆死の恐怖から完全解放し、すべての不安を吹き飛ばす【宇宙の力】~アンチセナイルの奇跡~
無意識に生活していた時には夢にも思えなかった・・・ 私が41歳のときに、奇跡的に…
投稿者 続無知の知 : 2010年4月24日 13:06
>私権社会の宗教の出所は上記の投稿の通り「存在不安」なのです。
なぜ私権社会になると存在不安になるのでしょうか?
またなぜ原始共同体には存在不安はないのでしょうか?
ちょっとこの2つが疑問になりました。
存在不安の根っ子には「人は一人では生きる事ができない」というようなものがあるように思います。
ということは、共同体を失うことで人に存在不安が生じ、「救い」を与える宗教が必要になったという事でしょうか。
存在不安を消すためには「神の救い」ではなく「共同体」であるという事を教える宗教が一つもなかったのは不思議な事ですね。