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2008年10月21日
朝鮮半島に前方後円墳があるのなんで?
みなさんもよく知っている前方後円墳。私は日本固有の古墳だと思っていたのですが近年では朝鮮半島西南部でもその前方後円墳が10数カ所発見されているそうです。
前方後円墳は日本では3世紀頃に登場して7世紀前半に消滅したと言われており日本全域で7000基以上発見されいます。一方、朝鮮半島では5世紀から6世紀まで登場して消えたと言われています。
歴史的にはやはり日本の方が古いんですね!
では、日本の文化であった前方後円墳が何故朝鮮半島にあるのか?気になりませんか?
今日はその辺りを扱っている興味深い記事を発見しましたので紹介したいと思います。 『大倭穴友会』 からお借りしました。ちょっと長いですがそのまま引用します。
まずは応援宜しくお願いします。
『朝鮮半島の前方後円墳と宋山里型石室 -栄山江流域の古墳文化と倭国-』
近年朝鮮半島において前方後円墳の存在が相次いで報告されています。特に百済の領域であった韓国の西南部、全羅南道の栄山江流域を中心に分布が顕著です。これらの前方後円墳は、倭国内でその築造の最盛期であった河内政権時代、倭国と最も関係の深かった伽耶の地域でなく、百済の地域に分布中心があることは興味あることです。
これらの前方後円墳は全長30~70mの規模で、埋葬施設には横穴式石室を有し、倭国でも継体期以降の前方後円墳に見られる特徴を備えています。墳形や埋葬施設などから類推すると、これらの前方後円墳の築造年代はおおよそ5世紀後期から6世紀中期と考えられています。
栄山江上流、光州直轄市光山区では隣接する2基の前方後円墳からなる月桂洞古墳が確認されました。その内の1基、明花洞古墳からは円筒埴輪列が出土し話題になりましたが、これらの古墳は横穴式石室を埋葬主体とする6世紀中期頃の前方後円墳と推定されています。
栄山江下流域や海岸部に築造された前方後円墳は、これらの古墳より若干古式の形状を示し、5世紀末期から6世紀前期に位置づけられます。従って時代が下るにつれ前方後円墳の造営が内陸部へと移行したことになります。
栄山江下流域は大伴金村が百済に割譲したといわれる四県の内、上多利・下多利そして牟婁に相当し、裟陀はそれに隣接した地域です。この領域に前方後円墳の築造が多く認められることは非常に興味ある事実といえます。
更に栄山江流域は、大和の発生期横穴式石室である宋山里型石室が多く分布する地域でもあります。栄山江下流域にこの宋山里型石室の出現したのは、この地域が完全に百済に取り込まれたためと思われますが、それ以前は百済の影響下にありながらも、甕棺という馬韓時代からの伝統的な墓制が採用されていました。
この栄山江下流域は、中国大陸へ渡航航路の中継地として重要な位置にありますので、倭国から隋への使節はこの栄山江下流域を起点に中国大陸へと渡航したと推測しています。
画像の確認
4~5世紀代、この地域は伽耶にも属さず、また百済にも属さない馬韓(慕韓)と呼ばれた地域ですが、ここからは周溝・周濠を有す倭国的な古墳が相次いで発見されていますので、河内政権時代は多くの倭系の住民が住居していたと推測されています。
その後、馬韓は高句麗の南進政策により漢城を追われ南下してきた百済によって領有化されてしまいますが、この背景には河内政権の衰退に伴う倭国勢力の後退も一つの理由として考えられます。
その栄山江下流域が百済に領有された時期は、先に触れたように宋山里型石室がこの地域に出現する5世紀後期頃と想定されますが、そのほぼ同時期に伽耶と倭国大和で宋山里型石室が突如として出現することは非常に重要な事実といえます。
伽耶の地域では、大伽耶連盟の一国、多羅が存在した慶尚南道陜川郡の苧浦里古墳群などで、5世紀末期~6世紀にかけて宋山里型石室が認められています。この地域は大伽耶の王都高霊に隣接し、大伽耶連盟の中心地に近く、この地域に百済系の墓制が大和と同時期に出現する意味は重要で、大伽耶・倭国両国に対する百済の影響力の増大によるものと推定できます。
この事実を支持するように日本書紀の継体記では、百済関係の記事が目立ち、それらは領土の百済への割譲など朝鮮半島における百済勢力の拡大を想起させる事項が多くなっていることからも伺えます。
一方大和地方での宋山里型石室の初現は平群地方にありますが、平群氏は百済系の渡来氏族と推察されますし、やや遅れて出現した実質的な巨勢氏の祖ともいえる市尾墓山古墳の被葬者もまた、横穴式石室の構造から推測して百済系渡来氏族である可能性が強く感じられます。
おそらく巨勢氏は栄山江下流域、すなわち馬韓時代に「上多利・下多利」と呼ばれた地域に進出した百済の有力氏族で、河内政権時代よりこの地域に進出していた大伴氏は、この巨勢氏と共謀することで、継体擁立に反発する葛城氏などの有力氏族に対抗したのではないかと考えています。
投稿者 mrran : 2008年10月21日 TweetList
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コメント
投稿者 案山子 : 2008年11月20日 09:23
なるほど、中大兄皇子(天智)系ってキーポイントになりそうですね。
それと、2人3脚って感じの鎌足→藤原系も追及する必要ありそうです。
>本当のことを知るには、丹念に事実を繋ぎ合わせていくしかない。今後も、追求を続けていきましょう。
さらに追求しましょう。
投稿者 Hiroshi : 2008年11月21日 17:40
藤原不比等が天皇の外戚として権力をコントロールしやすく書いたのが、日本書紀。戦後、伊勢は国家神道の状態を解体され、ロス茶をたのんだ。だから日本の神道がユダヤ教とにているとの説が跋扈した。ロス茶は100年以上の時間をかけ、この藤原氏が開発した権力コントロールシステムを復活させ、安住できる第二のイスラエルを目指している。だから古事記の研究に難癖をつけたり、古事記の純粋性を否定する論文が出るのはロス茶の回し者。
投稿者 三重県人 : 2011年2月13日 13:10
よくまとまっていますね。
遠山氏の見解は私も何度も読みましたが、乙巳の変に関しては
その前の舒明天皇あたりからの蘇我ー天皇の間の関係を明らかにしていくことが次の課題だと思います。
天智系の天皇はいつから始まっているのか?
そこを解明していく事が今、私のグループで取り組んでいる課題です。