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2015年01月29日
地域再生を歴史に学ぶ~第6回 一揆が成したのは共同体の結集
前回の記事で惣村の形成とは庶民の社会的自由の獲得の為であったとし、自治や自律はその為の手法であったとしました。いわば自らの生きる世界を自らで作る主体性に目覚めたのが惣村的集団形成であったのです。今回はその惣村成立と対を成して登場する一揆という現象を扱います。一揆というシステムがわかることにより、中世さらに近代までの地域意識、地域結束の拠り所が見えてくるのではないかと期待しています。
画像はこちらより借用させていただきました。
今回参考にさせていただいたのが勝俣鎮夫著の「一揆」です。全編にわたり一揆の事を多面的に考察された秀逸の一冊です。
さて、一揆といえば百姓一揆、農民特有の反抗行動だと思っている方も多いと思いますが、一揆の本質は反旗ではありません。一揆の本質は連携であり、結束であり、決断であり、行動だったのです。著者は現代で言うと“運動”に近いとしています。また、一揆は農民特有ではなく、武士、寺院が先行し、やがて農民も同じ形態を取るようになったとされており、いわば中世の乱世の中でそれぞれの集団が新しい課題を前にして集団決議を取る方法論の一つだったのです。
著書から紹介します。
【一揆とは何か】
>日本の中世、とくに14世紀から16世紀にかけての中世後期は一般に一揆の時代と言われている。この時代のあらゆる階層に、またあらゆる地域に、その集団の目的達成の手段として一揆が結ばれた。荘園の農民が領主に対して年貢などの課役の負担を軽減させるなどを目的として結んだ「荘家の一揆」、幕末に徳政令の発布を要求する為に蜂起した徳性一揆などは、これらを代表するものとしてよく知られている。
たしかにこの時代においてもこのような反権力、反体制の抵抗体としての集団をさすものとして「一揆」という言葉が使用されているが、当時、一揆はのちの江戸時代とは異なって、それだけを指す語として存在したのではない。大名が一致団結して将軍に反抗する為に結ばれた一揆、在地領主が相互の紛争を解決する為に結んだ一揆、さらには武士たちが戦場において戦功をあげる手段として結んだ一揆など、その目的に応じて多種多様な一揆が結ばれていた。
(中略)
私はそのような集団のうち、特定の手続きや作法に従って結成され、それに応じた特殊なメンバーのありかたをしめす集団が本来的な一揆であったと考える。現実には個々ばらばらの利害の対立をしめす社会的存在としての個人を、ある目的のために、その諸関係を止揚して一体化する手続きをとって結束したのが一揆であった。すなわち一揆とは、のちにのべる「一味神水」という手続きをとって「一味同心」という連携の心性をもつ人びとの集団であったといえる。
その目的は日常性を超えた問題、通常の手段では解決が不可能であると意識されたからである。一揆に参加するメンバーが、その目的達成のためにそれぞれの社会的存在としての諸関係をたちきったところで、はじめて一揆という集団の結成が可能であったのであり、一揆はその目的達成のためにつくられ、その目的のためのみに機能する非日常的な集団であったといえる。今日的にいえば「運動」に近い性格をもつものであったといえる。
【一味神水】
寺院や幕府ではあらゆる事を会議体で決定し、その決定を一味同心として一揆の裁断を正義であるとともに特殊な力があると確信していました。それは一揆の決定は「神慮」すなわち神の意思に基づくという観念が大きく作用していたとされます。
この一味同心を作り出す作法に一味神水という儀礼があるのですが、そこを見ていきます。
>「一味」という言葉が百姓の抵抗の作法として歴史に登場するのは訴状などあらわれる「百姓の習一味なり」から平安時代末ごろにすでに登場する。「一味」という結束方法自体は農民たちの結束手段として古い起源をもっていた。
この一味や一味同心の状態はどのようにしてつくられるかというならば、それは「一味神水」という儀式を必要とした。一味神水という行為はそれに参加する全員が神社の境内に集合し、一味同心すること、その誓約にそむいた場合、いかなる神罰や仏罰をこうむってもかまわない旨を書き記し、全員が署名したのち、その起請文を焼いて神水にまぜ、それを一同が回し飲みするというものが、この時代のオーソドックスな方法であった。このような起請の神水をのみ、一味同心をつくって抵抗する慣習は、ほぼ14世紀に広く農民のあいだに定着していったことが知られる。もちろんこの一味神水というものは農民特有のものではない。幕府の評定衆の一味にも寺院の一味にもこのような作法が前提とされていたと思われる。
(中略)
この神の水を多数の人びとが神前でわかちあって飲むという行為こそ、そこに神と人、人と人の共食共飲の観念が存在したことは確かであろう。原始的民族的共同飲食を意味する一味が同心意識をささえていたのだろう。血縁的な関係にない他者を神を媒介として結び合わせ、共同作業をおこなう神事の慣行、祭祀集団の存在、そこからつくり出された一揆のありかたとして祭の場があったと想像されるのである。もちろん祭イコール一揆と考えるのではなく、祭の行事、作業、意識などで培われた歴史的土壌のなかから、一定の歴史的状況のもとで自覚的に創出されたのが一揆であった。
【一揆がなした社会的意義】
一揆といえば反社会的行動にばかり目が行きますが、一揆がなした社会的運動論は共同体を超えた新しい集団、地域の原型といった生産的な部分が本質でした。また、幕府体制が始まる鎌倉時代から江戸にかけての大転換期に社会的決定を集団で成す、唯一の手法でもあったのです。
>中世後期の南北朝時代、室町時代、戦国時代は一揆の時代と言われる。武士、庶民などの身分や階層、僧侶、俗人などのありかたを問わず、一揆が全国いたるところで結成されていただけでなく、この時代には一揆という集団が社会構造上の一翼をになって、政治的社会的に、体制を規定する力となっていたという意味で、一揆の時代という呼称はふさわしいものであったということができる。
一揆はオーソドックスな体制の機構として登場したのではない。この時代は日本史上の最も大きな転換点のひとつとして位置づけられ、その時代の境界状況のなかで、本来、非日常的集団としての、特殊な非構造的存在である一揆が、構造への対置的措置として、この時代の社会を活性化し、その体制の一部を構成するほどその役割を拡大するにいたったと言える。この時代の社会構成上の転換には武士団の結合の解体、新しい農業共同体としての惣村の成立という社会集団のありかたの変化がその基底に存在した。
(中略)
基本的には近代の村の母体となった地域共同体としての惣村の出現が進行しつつもなお、権力がこれらの家や村という集団を社会的体制の基礎に完全に据え、組織化しえなかったのである。このような転換期の状況のなかで、これらの家や村をそれぞれの目的に従って結集する集団として、一揆が広く結ばれたのは決して偶然ではない。
(中略)
用水の共同利用に一揆契約が結ばれることがあるが、一揆契約により領主の支配領域を超えた郷村単位の共同組織が生まれたのである。惣村自体は閉鎖的な集団として形成されるのであるが、その閉鎖的集団を一単位とする一揆を結ぶことにより、より広い共同の場をつくりだしていったのである。
【まとめ】
さて、このように一揆をまとめてみましたが、いかがでしょう?今までの一揆への誤解は解けましたでしょうか?日本は乱世、混乱の時期ほど、集団的力を発揮し、その組織の作り方から決定の手法、実行の力まで豊かに創造してきたのです。日本人の問題解決の手法に武力や権力によらず、平和的解決、話し合いでの解決とはよく言われますが、一味神水で神の力を借り、それを集団的決議として事に当たる。集団で共認された事は森羅万象の神の決定と同義とする手法、慣習は実に縄文的資質を引き継いでいるように思います。
紙面の都合で省略しましたが、最後に高野山の評定会議で定められた一味の義を紹介します。一揆が追求の為の組織であったことも付け加えておきたいと思います。
>会議メンバー全員が主体的に公平な意見をのべることを神に誓約して、そこでなされる議決が一味同心の議決であった。1300年の高野山の評定集会の規則には「一同の評議とは、メンバー各自が公平を心がけ、縁によって左右されず、一方に味方もせず、あくまで真相を究明し、理非をあきらかにすることである」と述べられている。
投稿者 tanog : 2015年01月29日 TweetList
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コメント
投稿者 根保孝栄・石塚邦男 : 2015年1月31日 22:03
紹介
百花繚乱 http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/
おほもと http://www.oomoto.or.jp/
投稿者 言霊百神 : 2015年2月2日 14:51
犠牲覚悟で一揆に走った村・・・
たいしたものだ。心意気だけでも学びたい。