縄文人の海洋術~自然への対処技能は古代人の方がはるかに高かったひとつの証 |
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2019年08月12日
関東がヤマトの驚異になった理由を紐解く~豊かな縄文から弥生への移行
関東と聞けば、広大な平野を思い浮かべる方も多いでしょうが、太古の関東は、湿地帯、湖沼が覆い尽くしていました。縄文時代には東京湾が今でいう内陸奥深くまで広がっていたし、霞ケ浦も広大な内海で、関東平野には内陸の水運が発達していました。
こうした気候や土地の状況から縄文時代は関東、東北が主役でした。
稲作が九州から西日本に伝わり東西の形成が逆転しますが、以降、いわゆる日本の歴史はヤマト建国から西日本中心に繰り広げられています。
今回は縄文から弥生へ移行する背景を探り、関東が中央にとって脅威になっていく歴史について探求していきたいと思います。
【豊かな縄文王国】
関東はかつて縄文王国だった。国立民族学博物館が行った試算では、縄文時代早期から後期にかけて他地域と比べた場合、関東の人口の相対数と密度がもっとも高かった。中期には、関東から信濃にかけての人口が増えている。晩期になって東北に首位の座を奪われるが、弥生時代には再び関東の人口は増えている。
日本列島全体を大まかに見ると、縄文時代中期に人口が急増し、後期から晩期にかけて急速に減っていった。そして、弥生時代に人口爆発が起きている。弥生時代の東北の人口は3万3400人で人口密度は1平方キロ当たり0.5人、近畿は人口10万8300人、密度は3.3人で、これに対し、関東は人口9万9000人、密度は3.1人と回復している。弥生時代になると、北部九州や瀬戸内海沿岸部で人口増加がみられるが理由は簡単で、稲作が受け入れられていったからだろう。 但し、東北の縄文時代後期から晩期は、他地域のような人口減はみられない。この時期の東北は、縄文文化の中心的存在になっていたようだ。土偶の制作が盛行するのもこの時代だ。おおまかな傾向として、関東は縄文時代を通じて、ほぼ住みやすかったものと考えられる。
縄文時代の一段階前、旧石器時代も、人々は東側に集まっていた。 ちなみに関東の旧石器時代は火山噴火の時代でもあった。関東平野は多くの活火山に囲まれ、火山灰が降り積もり、赤土のいわゆる関東ローム層が形成された。
日本列島を大きく二つに分ける文化圏の境界線は、関ヶ原付近や岐阜と富山を結ぶ高山本線の周辺と指摘されてきた。縄文人はその東側に多く住み、東西の文化と言語、嗜好の差は今日も影響を及ぼしている。
ではなぜ縄文人は東側を好んだのだろう。
理由はいくつも考えられるが、第一に植生の差が挙げられている。東の落葉樹林帯と西の照葉樹帯の違いであるが、落葉樹林帯の植物は生命力が旺盛で、木の実や昆虫が多く、これをエサにする動物も人間も暮らしやすかった。世界の食料採取民のなかでも縄文人の栄養状態は抜きんでていて、虫歯に苦しめられていたことが分かっている。 また、東日本の川はサケやマスの宝庫だ。毎年秋に海に下ったサケは産卵のために川をさかのぼってくる。内陸部にいながら、海の幸が向こうからやってくるわけで、縄文人たちはサケを神のもたらす恵と感謝し、食し、保存した。 今日でも、東のサケと西のブリとおおきな嗜好の差が残されている。サケ、マスの分布域は、高度な縄文文化の象徴である亀ヶ岡式土器の影響する地域とほぼ重なるらしい。
その東日本の中でも、関東の縄文時代の特徴は貝塚にある。 日本全国で二千数百の貝塚が見つかっているが、その多くが関東のものである。しかも縄文海進で広がっていた旧東京湾や茨城県の霞ケ浦沿岸に集中している。 関東平野の縄文人は、縄文時代早期ごろは魚や貝を求めて海に出るようになったが、早期後半になると、内陸部に向けて海産物や貝の加工品を持ち込む例が増えていく。貝は、加工して保存食品にしたあとで貴重な交易品になっていった。太平洋側から直線距離で600キロ、移動距離は1000キロになる場所まで貝の加工品が運ばれたことが分かっている。
【列島に共存した縄文と弥生】
ではなぜ、弥生時代に至り、東西の立場は逆転したのだろう。
最大の原因は、西が稲作に適していて、東がその逆だったことがあげられる。東北に関しては寒冷な気候がおおいに邪魔になったし、関東の土地には欠点があった。 縄文時代の関東平野は、温暖化によって海が内陸部まで入り込み、その後、寒冷化によって水は引いたが、平野のあちこちに無数の湿地帯が残された。魚や貝や鳥が集まってきたので縄文人にとっては都だったが、弥生時代の技術では、周辺を水田に変えることは容易ではなかった。 これに対し、西日本は夏の冷害が少なく、火山が少なく、水田を作りやすかった。さらに朝鮮半島から鉄が大量に入り込み、農具の革新によって開墾と灌漑が容易になり、人口爆発を起こす大きな要因となった。
稲作を東側に人びとがなかなか受け入れようとしなかったのは、それをすぐに始められる土地が少なかったのもあるが、食料に困っていたわけではなかったからだ。関東平野に本格的に稲作が流入するのは、弥生時代後期の初頭までずれ込んでいる。
これまでの歴史感は「弥生時代の稲作は、渡来人の手によって西から東に伝えられ、新しい文化が東に根付いていった」というものだったが、考え方はだいぶん変わってきている。 稲作は、先住の縄文人が積極的に受け入れ、しかも彼らは、新しい文化を受け入れながらも縄文的な習俗を捨てなかったことが分かってきた。
例えば、稲作が受け入れられる直前の縄文時代後期に、西日本のそれまで何もなかった土地に定住するものが現れ、東側から土偶や石棒など、縄文的な文物と儀礼が流入していた。また、東側で行われていたアズキやダイズの栽培も、西日本で行われるようになっている。要は、東側の縄文人が西へ移動したわけだ。その直後に朝鮮半島から、アワキビの栽培や稲作が伝わり、縄文人たちはこれを受け入れている。
こうして西日本では、縄文と稲作の二つの文化が習合し、縄文的な文化の上に、新な文化が発展していったと考えられるようになった。 人類が戦争を始めたのは農業を始めたことをきっかけにしていると指摘されるが、近畿や東海では強い王権が生まれなかった可能性が高い。 分かりやすい例が銅鐸で、なぜ、鳴らすための鈴が巨大化して化け物のようになったかというと、集落ごとの祭祀に用いて、ひとりの強い権力者に独占させないようにしたためと考えられている。これは強い王の発生を嫌った縄文社会の因習がそのまま踏襲された可能性が高い。ヤマトに弱い王=天皇が誕生したのも、このような縄文から継承されてきた理念に根差していたのかもしれない。
「神社が語る東国の古代氏族」関裕二著を参照
投稿者 tanog : 2019年08月12日 TweetList
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