2019年8月8日

2019年08月08日

縄文人の海洋術~自然への対処技能は古代人の方がはるかに高かったひとつの証

前回の記事でインかに渡った縄文人を書いたが、今回はその縄文人の航海術が世界的に見ても凄まじいレベルの高いものであったことを示す記述を紹介したい。最も凄いのは世界でも最速の流れの早さを持つと言われる黒潮を横断した航海技術である。帆船ができる時代であっても黒潮は乗り越えられなかったと言われ、豊かな南の海洋資源を運ぶ黒潮は同時に日本と大陸を遮る海の壁となって長い期間日本を守ってきた。そしてこの黒潮の中で工夫に工夫を重ねて漕ぐ体力を持った肉体と技術を高めたのが海洋系の南方縄文人であった。
リンクより紹介させていただきました。

縄文人が優れた航海術を持っていた証拠を以下に示す。
1 奄美・沖縄で、九州の縄文前期の曽畑式土器が発見され、縄文時代の奄美の遺跡から、本土との活発な交流を示す遺物が発見されている。
2 奄美は九州から300km以上離れ、屋久島から200km以上離れ、島伝いの最長島間距離は60kmある。
3 九州から奄美に渡るには、黒潮が太平洋に噴出しているトカラ海峡を横断する必要がある。黒潮の平均流速は5㎞/h、最大流速は7km/hで、幅は100㎞。
4 黒潮を横切るには10km/h以上の速度が必要になり、鎌倉時代に博多に来襲した元寇の船も、種子島に鉄砲を伝えたポルトガル人も、黒潮は横切っていない。
5 中国の史書は、倭人の島は会稽東冶(福建省福州)の東にあると記し、倭人の主要航路は黒潮を2回横断する、九州~沖縄~台湾~福州だった事を示している。
6 縄文時代の遺跡から、丸木船の様な船材と櫂が多数発掘されている。丸木船の様な船材は、海洋船の船底材だったと考えられる。
7 三重県で発掘された5世紀の舟形埴輪は、立派な構造船の形状を示し、19世紀まで中国の外洋船だったジャンクと同じ構造だから、その祖型だったと考えられる。
8 好太王碑文に、朝鮮半島を南下した5万の高句麗軍が、倭と戦ったと記されている。宋書は倭が半島南部を守り切った事を示し、倭には強力な海運力があった事を示している。
9 複数の旧石器時代の遺跡から、伊豆半島から50㎞以上離れた神津島産の、黒曜石が発掘されている。縄文時代の南関東では、神津島産の黒曜石が多用されていた。

☆中でも4の黒潮を渡る技術について(どれほど難しい事か)詳しく見てみたい。
↓黒潮の流れ
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黒潮を横切るために、必要な速度を求めるベクトル図流速7㎞/hの黒潮(青い矢印)を直角に横切る場合、船が海流の流路を45度遡る方向に10㎞/hで進行すると(青い矢印)、7㎞/hの速度で(橙色の矢印)目標に近付く。このベクトル図だけでは、10㎞/hもの速度は必要ない様に見えるが、トカラ列島を島伝いに横切る場合、屋久島から口之島に向かう56㎞は、30度の角度で黒潮を遡る必要があり、上の図の山吹色の破線で黒潮に押し返され、目標に近付く速度は3.5㎞/h以下になる。この状態で56㎞を横断するには16時間漕ぎ続ける必要があり、人間の体力の限界を超えただろう。最大流速7㎞/hは最悪の場合だから、もう少し現実的に平均流速5㎞/hを採用しても、実効速度は4.3㎞/hに改善されるだけで、10㎞/hの速度で13時間漕ぎ着ける必要があった。しかし偶然7㎞/hの海流に遭遇すれば、海難のリスクが高まったから、古代人であってもその様な事態は避けただろう。

屋久島には標高1936mの山、口之島には標高628mの山があるから、屋久島の海岸から口之島の山の上部400mが見え、山を進路の目標とする事に問題はないから、縄文人は島を目指して直線的に漕ぎ進んだと推測されるが、黒潮の中で漕ぐ手を止めると太平洋に押し出され、遭難してしまうから、休まずに漕ぎ進む必要があった。
時速10km/hの速度では、屋久島から口之島までの所要時間が10~20時間になるから、漕ぎ手の交代要員を準備する以外にも、簡単には想像できない色々な工夫が必要だったと推測される。次項に示す様に、船底材の長さは10m未満だったから、それが船の長さを制限していたと考えられ、現代人には容易に想像できない技を、巧みに使った可能性が高い。

現在のボート競技での世界記録は、
舵手付きフォア(艇長12m)で6分/2㎞=20km/h、
舵手付きエイト(艇長17m)で5分20秒/2㎞=23km/h
縄文人の船はこれらの半分程度の速度で、太平洋の波間を長時間航行できた事になる。

陸上競技では、400m走では44秒程度(33㎞/h)が最速で、マラソンでは2時間4分(20km/h)が最速だから、競技用ボートに近い性能が出せる船であれば、10㎞/hで長時間航行できた事になる。実現不可能な数値ではないが、知恵を絞って人力の限界に迫らなければ実現できなかったから、古代人を侮ってはならない良い例になるだろう。
この事情を帆船に置き換えると、10㎞/hの速度は、帆船の終末期だった19世紀の速度だから、それ以前の帆船では黒潮を乗り切る事はできなかった事になる。帆船は風頼みだから、黒潮を横断する事は難しかったと推測される。言い換えると、漕ぎ手がいないジャンクの様な帆船では、黒潮を横切る事はできなかった事になる。

漕ぎ手は日頃から筋肉を鍛錬する必要があり、漕ぎ方にも技術が必要だったから、安易な再現プロジェクトは馬鹿げた企画になる。歴史学者が古代人を貶めているから、その様な発想が生まれるのだろうが、自然に対する対処技能は、現代人より古代人の方が優れた部分も多かったと考えられ、この発想に現代人の奢りが見え隠れしている。縄文時代を深く考察すると、縄文人はこの様な侮蔑的な発想では到底理解できないほど、優れた認識力を発揮していた事が分かる。科学的な知識はなかったから、合理的な発想で自然と対峙しなければ、生き抜く事ができない時代だった。縄文時代を理解するためには、縄文人のその様な知恵を当然とする、柔軟な認識が必要になる

以上の論考から、ある程度の規模の船でなければ沖縄に渡航できなかった事と、この難所を通過できる船であれば、大陸に出向いて河川を長躯遡上できた事を、指摘する事ができる。

次回投稿ではこの丸木舟について詳しく見ていきたい。

投稿者 tanog : 2019年08月08日