南米に渡り、プレインカ文明を築いた縄文人 |
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2019年10月24日
戦争より恐ろしい現代の自然災害~防災の為には西欧科学に代わる”新しい科学”が必要
寺田寅彦氏の記事をもう一つ紹介しておきたい。
戦争より恐ろしいのが天災という。
「日本のような特殊な天然の敵を四面に控えた国では、陸軍海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然ではないかと思われる。」
という寺田氏の見識は非常に尤もで今から80年以上前にこの意見を投げかけ、未だ国土交通省はその緒にもついていない。
莫大な防衛費の半分でも災害対策に投入することができれば、その被害はかなり未然に防げる。さらに現在、地震も台風も人工的に起している疑いがかなり濃厚に出てきており、仮にそうであれば科学技術の使い方としてはまったく真逆の方向になっている。それとも災害を予測する科学技術は高度すぎて人智では不可能という事か。
今回の台風での被害報道があまりに少なく、ワールドカップラグビーの報道で有耶無耶になっている点もおかしい。国の責任を問う論調も少なく、防災失政の世論を形成するに至っていない。「災害は忘れた頃にやってくる」とは現在まで残る寺田氏の名言だが、氏が伝えたかった事は、災害を常に忘れずに積み上げていく研究機関やその為の独自の科学技術がこの国には必要ではないかという視点である。いわば古来、縄文人が行ってきた自然へ同化し自然の摂理を一つづつ見定めた自然観を、現代の科学技術を使ってやればどうなるのかという課題だと思う。その為の科学技術とは実験室で行われる西欧科学と異なり、事実を徹底的に注視し、その中から摂理となる法則を見つけ出すという方法が必要でアプローチが全く異なる。
マスコミがこの新しい科学に役に立てるとしたら、災害発生の都度に淡々と事実の報道、数字化したデーターの提供を世論誘導することなく行う事であろうと思う。
ーーー寺田 寅彦「天災と国防」より抜粋ーーーーーー
戦争はぜひとも避けようと思えば人間の力で避けられなくはないであろうが、天災ばかりは科学の力でもその襲来を中止させるわけには行かない。その上に、いついかなる程度の地震暴風津波洪水が来るか今のところ容易に予知することができない。最後通牒も何もなしに突然襲来するのである。それだから国家を脅かす敵としてこれほど恐ろしい敵はないはずである。
もっともこうした天然の敵のためにこうむる損害は敵国の侵略によって起こるべき被害に比べて小さいという人があるかもしれないが、それは必ずしもそうは言われない。たとえば安政元年の大震のような大規模のものが襲来すれば、東京から福岡に至るまでのあらゆる大小都市の重要な文化設備が一時に脅かされ、西半日本の神経系統と循環系統に相当ひどい故障が起こって有機体としての一国の生活機能に著しい麻痺症状を惹起する恐れがある。万一にも大都市の水道貯水池の堤防でも決壊すれば市民がたちまち日々の飲用水に困るばかりでなく氾濫する大量の流水の勢力は少なくも数村を微塵になぎ倒し、多数の犠牲者を出すであろう。水電の堰堤が破れても同様な犠牲を生じるばかりか、都市は暗やみになり肝心な動力網の源が一度に涸れてしまうことになる。
こういうこの世の地獄の出現は、歴史の教うるところから判断して決して単なる杞憂ではない。しかも安政年間には電信も鉄道も電力網も水道もなかったから幸いであったが、次に起こる「安政地震」には事情が全然ちがうということを忘れてはならない。
国家の安全を脅かす敵国に対する国防策は現に政府当局の間で熱心に研究されているであろうが、ほとんど同じように一国の運命に影響する可能性の豊富な大天災に対する国防策は政府のどこでだれが研究しいかなる施設を準備しているか、はなはだ心もとないありさまである。
思うに日本のような特殊な天然の敵を四面に控えた国では、陸軍海軍のほかにもう一つ科学的国防の常備軍を設け、日常の研究と訓練によって非常時に備えるのが当然ではないかと思われる。陸海軍の防備がいかに充分であっても肝心な戦争の最中に安政程度の大地震や今回の台風あるいはそれ以上のものが軍事に関する首脳の設備に大損害を与えたらいったいどういうことになるであろうか。そういうことはそうめったにないと言って安心していてもよいものであろうか。
わが国の地震学者や気象学者は従来かかる国難を予想してしばしば当局と国民とに警告を与えたはずであるが、当局は目前の政務に追われ、国民はその日の生活にせわしくて、そうした忠言に耳をかす暇がなかったように見える。誠に遺憾なことである。
台風の襲来を未然に予知し、その進路とその勢力の消長とを今よりもより確実に予測するためには、どうしても太平洋上ならびに日本海上に若干の観測地点を必要とし、その上にまた大陸方面からオホツク海方面までも観測網を広げる必要があるように思われる。しかるに現在では細長い日本島弧の上に、言わばただ一連の念珠のように観測所の列が分布しているだけである。たとえて言わば奥州街道から来るか東海道から来るか信越線から来るかもしれない敵の襲来に備えるために、ただ中央線の沿線だけに哨兵を置いてあるようなものである。
新聞記事によると、アメリカでは太平洋上に浮き飛行場を設けて横断飛行の足がかりにする計画があるということである。うそかもしれないがしかしアメリカ人にとっては充分可能なことである。もしこれが可能とすれば、洋上に浮き観測所の設置ということもあながち学究の描き出した空中楼閣だとばかりは言われないであろう。五十年百年の後にはおそらく常識的になるべき種類のことではないかと想像される。
人類が進歩するに従って愛国心も大和魂もやはり進化すべきではないかと思う。砲煙弾雨の中に身命を賭して敵の陣営に突撃するのもたしかに貴い大和魂であるが、○国や△国よりも強い天然の強敵に対して平生から国民一致協力して適当な科学的対策を講ずるのもまた現代にふさわしい大和魂の進化の一相として期待してしかるべきことではないかと思われる。天災の起こった時に始めて大急ぎでそうした愛国心を発揮するのも結構であるが、昆虫や鳥獣でない二十世紀の科学的文明国民の愛国心の発露にはもう少しちがった、もう少し合理的な様式があってしかるべきではないかと思う次第である。(昭和九年十一月、経済往来)リンク
投稿者 tanog : 2019年10月24日 TweetList
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