適度な人口規模を維持し、持続可能な営みを続てた縄文人に農耕は不要だった。 |
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2019年10月10日
「江戸の防備録」より~江戸時代データーとして (1)
江戸時代を研究している文学者で磯田道史という方が居られる。磯田氏の書いた著書で「江戸の防備録」という本があるが、その中に貴重な記述がいくつかある。江戸時代データーとして記録しておきたい。今回を第1回とし、もう1回ほど投稿する予定です。
「江戸の教育事情」
江戸時代の教育というと、人間を儒教教育の鋳型にはめる画一教育のいめーじがある。しかし、実際は違う。そもそも、子供たちが一斉に先生の方に向いて教育を受けるのは明治から始まった。(江森一郎「勉強」時代の幕開け)
江戸時代の寺子屋の絵図を見ると、寺子屋の子供は先生の方を向いて並んでいない。点でバラバラに自習している。江戸の教育はマンツーマン教育に近い。先生は子どもが手を動かして字を書くのをみてやり、子どもが口を動かして本を音読するのを一人づつ順番にきいた。江戸の学びは子供が能動的に自分の手と口を動かして成り立つ「手と口の学び」であった。
ところが明治以後これがかわる。黒板が登場し、先生が教えるものを子供がじっと座って暗記する座学、つまりは「目と耳の学び」になった。それが近代の学校というもので、国家が国民に画一的な知識を一斉注入するのには、これが効率がよかった。しかし、自分で勝手に何かをやる創造的な人間や面白い発想は育ちにくい。江戸の寺子屋の中にはまったくマイペースであり、サボる子、暴れる子もいて、無法地帯であったが、体を動かしながら学ぶ子供の顔は活き活きしていた。
「江戸の教育費」
日本人には教育にお金をかけるという性があるらしい。江戸人がどのくらい子供の教育に金をつかっていたか知りたいと思って、教育史の本をひもといた。寺子屋の学費についてはすでに研究があるらしい。
寺子屋に入るにはまず「束修」という入学金がいる。それから授業料の「謝儀」。これは年5回払いで、江戸では金一朱(約2万円)ずつ5回納めるのが通例であった。このほかにも盆暮れの謝礼などがあったから子供1人を寺子屋にやると親はいまのお金で年間10万円ほどの学費を支払わなければいけない。村の寺子屋はこれほど高くなく、この半分ほどの謝礼で通えたようだが、現金収入の少ない農村部の親達にとっては大きな負担であった。
ちなみに小学生をもつ現代の学習塾と家庭教師に使うお金は平均で年間7万円だという(文科省調べ)。江戸時代には、税金で提供される公教育というものがないから、江戸人は現代人に匹敵する教育負担に耐えて、子供を寺子屋に通わせていた。ただ、今と違うのは、寺子屋はしばしば授業料をまけてくれた。貧しい家の子供には師匠が学費を返したり、文具をわけてくれたりした。鶏の卵10個という学費もあったというから、やはり江戸時代は牧歌的である。
「結婚と離婚の歴史」
この国の結婚と離婚の歴史を古代にさかのぼって考えてみたい。
古代の婚姻としては「妻問婚」という、まことにおおらかな響きの男女のつながりがよく語られる。しかし、この妻問婚はいつまでも男が女のもとに通うのではなく、二人の仲が深まると、いつとはなしに同居婚に移っていくものであったらしい。ただ、疑問が残る。果たしてこのような結婚形態であったのだろうか。
妻問婚などというのは、源氏物語の光源氏のような王侯貴族だけのものなのではないか。そういう疑念も浮かぶが、古代はやはり庶民まで妻問があったようなのである。法制史家の鎌田浩氏が奈良時代の戸籍から検討しているが、それによると、やはり同居して戸籍にも載った妻をもつ成年男性の割合は少なかった。養老5年(721年)の筑前国川辺の戸籍では妻をもつ男性の割合は62%、関東の下総国大嶋郷の戸籍(養老6年)などは妻をもつ男性の割合は24%しかいない。古代社会は妻問婚もあれば同居もあるという、結婚の形がまことに多様な社内であったのだろう。
「長続きしなかった結婚生活」
奈良時代の戸籍をみると、夫婦は別姓。結婚形態も実に多様である。平安、奈良時代には夫は妻のもとに通う「妻問婚」が有名であるが、夫が妻の家に住みつく結婚形態が結構あった。
こういう結婚の場合、夫が妻の家に通ってこなくなるか、出て行くと、離婚が成立する。
栗原弘著「平安時代の結婚の研究」によれば、夫が通ってこなくなって「2~3年ほどで離婚になるという了解があった」とされる。
それでなくても当時の結婚は不安定であった。岡山大学の今津勝紀教授が2004年に毎日新聞に発表した一文によると、古代人は短命であり。702年いまの岐阜県富加町の戸籍から推計した平均寿命は男が32.5歳、女は27.75歳であるという。結婚しても相手がすぐに死ぬのがふつうであった。特に女性は出産で命を失いやすく男は再婚をくりかえしていたらしい。そうしてようやく子孫を残していたのが古代社会の厳しい現実であった。奈良時代は「都は文明、田舎は未開」の社会といっていい。都の王侯貴族は大仏を建てているが、庶民は竪穴式住居のなかで寒さにふるえていたという、日本史上最大の格差社会であり、人はすぐに死んだ。
「結婚は一生ものではなかった」
離婚を繰り返すのは、現代だけの風潮ではない。江戸時代の武士は離婚率が高く、再婚を繰り返すものが少なくなかった。正確な記録の残る愛媛県宇和島の藩士32人について調べてみると4割が離婚経験者であった。離婚や死別で2度以上結婚した人が6割、3度、4度と再婚する人が2割いた。離婚された妻もすぐに再婚している。もちろん庶民も、武士と同じかそれ以上に離婚した。
日本人に結婚は一生のものという観念が定着し、夫婦が容易に離婚しなくなったのは明治末期以降のこと。江戸時代から明治前期の日本人は、現代よりも離婚率が高く、結婚したうちの4割が別れていた。法社会学者の湯沢康彦氏によれば、統計のある国の中では、明治半ばまで日本は世界最高位の離婚大国であったという。
明治までの日本人は結婚を家政婦の一時働きのように考えるふうがあった。離婚は日常で、今ほど大げさに騒がなかった。{離婚は今の我が国に普通の習慣となり、人も見て怪しまざる程}と、明治19年に書かれた前出の社説にはある。
「江戸時代も名字をもっていた」
よく質問を受ける。「江戸時代、庶民は名字を名乗れなかったと学校では教わった。でも墓参りにいくと、ウチの祖先は農民だったはずなのに墓にはちゃんと名字が彫られている」我が家は、武士のように名字帯刀を許されていた家なのでしょうか?
実は江戸時代の百姓、町人は、その多くが非公式に名字を持っていた。名字が名乗れないというのは建前であった。領主あての公文書の中で名字が使えなかっただけである。私信を書いたり、寺社に寄進したりするときには、みんなかなり自由に名字を使っていた。
(中略)
教科書では庶民は名字を名乗れないように教えているが、実情をみるかぎり、江戸時代の名字制度は緩かったといってよい。だから日本中の百姓・町人が墓に名字を刻んでいる。むしろ江戸時代は一般庶民にまで「家名」が浸透し、「家」を重んじる思想が浸透した時代であったと言える。
投稿者 tanog : 2019年10月10日 TweetList
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