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2014年05月13日
日本における仏教が果たした足跡5~空海が求めた宗教とは?
こんにちわちわわです。
これまで、インドで起こった仏教が中国を通じて日本に伝来し、国家統合の観念として統合階級に浸透してきたことを学んできました。
今回は時代を平安時代に移し、空海の真言密教について迫っていきたいと思います。
画像はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA%E6%B5%B7より拝借しました。
奈良時代の仏教は国家建立のための統合観念として用いられた形だけの仏教でしたが、朝廷の保護の下、力を持ちすぎました。
孝兼女帝が僧・道鏡を寵愛し、あわよくば道鏡が天皇にまでなろうとして和気清麻呂に阻止された経緯もあり、奈良仏教の影響を排除することが長岡京、平安京への遷都の一つの動機であるとされています。
平安時代になると、平城京に残された旧勢力に対して、平安京での新勢力の構築が不可欠となります。しかも、建築や仏像といった形だけのものではなく、統合観念としての中身に重点を置き、最澄を国司として唐に派遣させ、中国に伝わる仏教の教義そのものを輸入しようと企てました。
そこに、国家の意思とは無関係に登場したのが弘法大師こと空海です。
空海により仏教は、元祖インドの未完成な仏教と中国のばらばらな仏教を体系化し、より論理整合性を高め、一つの真理として日本で完成された域に達することになるのです。
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■平安時代に求められた密教
桓武天皇の長岡京遷都の失敗、引き続き平安遷都事業、大きな飢饉や天災の勃発、皇族間の血を血で洗う争いなど、平安時代の立ち上がり期には大きな社会不安が広がり、これらの原因を怨霊、祟りにあるとし、それを鎮めることが国家の重大課題となってきます。
奈良時代の仏教は南都六宗で、各宗派共、教義というより学問の色彩が強く、これらの課題に対応できずにいました。
桓武天皇は国の官僚僧である最澄に、中国から天台宗の経典を持ち帰るよう命じました。最澄は遣唐使として唐に渡り、天台宗の経典にとどまらず、禅や典籍百二部・百十五巻も筆写して持ち帰りました。これが天台の密教となるのですが、それは密教の一部に過ぎませんでした。
帰国後、桓武天皇が着目したのがこの密教の部分です。密教の持つ加持祈祷の鎮護国家の手法が怨霊祟りの退治に効果があるとされ、天台宗を国家宗教と位置づけることになったのです。
一番困惑したのが最澄です。
彼は、密教の経典は持ち帰ったものの、それはごく一部に過ぎず、その教義そのものにも全く精通していません。密教として完成された空海の真言密教にその経典と教義を伝授してもらうよう空海に弟子入りを試みます。(後に絶縁されますが・・・)
ところで空海です。
空海は四国の佐伯今毛人(いまえみし)の子として生まれ育ちますが、官僚養成機関である大学での学問に失望し、大学を中退。何が本物の学問かを思索し、儒教、道教、仏教の中から仏教が一番ふさわしいと選択、中でもインド古来から伝わる真言密教に的を絞り、最澄と時を同じく遣唐使として唐に渡りました。
日本が生んだ最初の人類普遍の天才と言われる空海は入唐後2ヶ月でサンスクリット語をマスターし、通常20年は滞在が必要といわれる仏教教義の習得期間を2年で終え、真言の最高位恵果から灌頂を受け、正当な真言密教の後継者となったのです。
そして帰国後、仏教のさまざまな宗派を体系化し、真言密教がその頂点に立つとしました。
■真言密教とは?
真言密教は両部不二の原理に立ち、精神の原理を説く金剛頂経系の密教(金剛界)と、物質の原理を説く大日経系(胎蔵界)の密教の両方の融合であるとします。
この二つの系統の密教は現世を否定する釈迦の仏教に対し、現世という実在もその諸現象も宇宙の真理の現れであるとし、宇宙の真理との交信の方法に魔術を用いました。
これら土俗魔術、呪文、マジナイを集めたインドにおける密教を母体としそれらを融解させつつ、巨大な宇宙の構造の体系を作り上げました。生命という具体的なものも含めて、宇宙に実在するあらゆるものが一つの真理のあらわれであるとし、その純粋性に宗教的権威を持たせ、それをもって密教の諸仏諸菩薩諸天としました。
その上、それらが真理のまにまに動くという運動の中においてもとらえ、これが、密教で重視する曼荼羅となります。
さらに、その真理の中で人間が生体のまま真理化しうるというのが即身成仏で、この即身成仏をもってこの体系の最終目的とするのが、空海の真言密教の教義です。
画像はhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%A1%E7%95%8C%E6%9B%BC%E8%8D%BC%E7%BE%85より拝借しました
■真言密教が国家に取り入れられる過程
南都六宗を敵対する天台宗に対して、真言宗は全仏教を体系の中に組み込んでいるため、容認する立場を取っています。天台宗が国家宗教の位置づけとなり、警戒する南都六宗は、中国で真言密教を伝導され名をはせた空海に接近し、空海を東大寺別当として向かい入れました。
やがて天台宗を押す桓武天皇が崩御され、平城天皇は即位3年ですぐ退位、次に嵯峨天皇が即位します。
即位間もなく前平城天皇と薬子がクーデターを起こしますが、それを鎮圧後、空海はすかさず高雄山寺にて嵯峨天皇のために鎮護国家の祈祷の儀式を行い、嵯峨天皇に認められることになります。以後、嵯峨天皇との緊密な関係を通じて、真言密教は天台宗をしのぐ勢力を築き上げるのです。
真言宗の伝導道場として東寺を与えられ、天台宗の台密に対して東密と呼ばれるようになります
但し、嵯峨天皇が認めるのは真言密教そのものよりも、空海の書道、絵画、詩歌等芸術的才能の比重が高かったとされます。
画像はhttp://www.shodo.co.jp/blog/hidai2009/2009/02/post-23.htmlより拝借しました。
■空海は何を考えていた?
平安の時代、密教が主流になった理由は、鎮護国家のための加持祈祷の効果が国家の利害と一致した面はあろうかと思いますが、一民間人の空海といった類稀な天才児が、たまたま時の人として現れ、時代を築いた偶然の結果であるとも見てとれます。
空海自体、官僚の道を拒んで仏教の世界に入ったという事もあり、決して国家宗教を目指して真言密教を起こしたわけではありません。単に民族を超えた人類の生命の法則を宇宙の法則の中に組み込み論理整合性ある理論体系を構築したかっただけなのかもしれません。
晩年、天台宗の比叡山に対して、高野山の金剛峰寺にその総本山を築いたことで、平安時代の山岳宗教の色彩を際立たせていますが、そもそも国家との距離を取り、真理の追究に生涯をまっとうした結果に過ぎないとの考えも考えすぎではない気もします。
http://ajgc.jp/photo/archives/001111.html
より画像は拝借しました。
単に宗教の伝道師だけではなく、私費で初の民間大学となる綜藝種智院を開設し、一般庶民に広く思想や技術を教えたばかりでなく、決壊した満濃池の改修工事では当時最高の土木建築技術で技術者としての力も振るいました。
こうした国家の枠を超えた事業展開も通じて、これまで国家の都合のいい倒錯観念に過ぎなかった宗教を、広く一般大衆のレベルに拡大するきっかけを作った業績も見逃すことはできないでしょう。
■完成度が高すぎて発展しなかった真言密教
空海の打ちたてた思想は、既存の階級や身分を否定し、万人が即身成仏できるというもので、この思想が後の大衆仏教の土台をなしていきます。
徹底した論理追及で一大哲学ともいえる理論体系を組み立てた追究姿勢は、日本史上類を見ない存在といってよいでしょう。
しかし、この真言密教も結局は国家と貴族のための宗教の域を超えることはありませんでした。
そして、あまりにも完成度が高かったゆえ、空海以降その思想性の発展を見ることはありませんでした。
国家宗教としての天台宗の発展をよそ目に、高野山の真言密教は、平安の時代をそのままに、現在も空海伝説とともに息づいているのです。
投稿者 tanog : 2014年05月13日 TweetList
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コメント
投稿者 ,根保孝栄・石塚邦男 : 2015年2月16日 01:03
空海の庶民的な性格は、そのままスーパーヒーローとして空海伝説になったのですね。
しかし、空海の意に反して、国との結びつきを強めたのは、仏教を政治的に利用しようという宮廷人の思惑のためであったのでしょう。