スンダランドから日本へ。ジャワ原人→スンダランド人(新人)→港川人→縄文人→日本人 |
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2020年01月30日
日本人の海洋的資質は巨大火山「喜界カルデラ」によって拡散した。
スンダランドから流れた港川人、彼らはその後どのように縄文人へとなっていったか。ここも「日本人はるかな旅」の中から紹介してみたい。原文をそのまま転載すると膨大な投稿文になるのでかいつまんで要約します。ところどころに原文の掲載をします。色を変えています。
まず2万3千年前にたどり着いたスンダランド人は沖縄の港川に定住します。
そこでおそらく数千年継続して生活しますが、約1万5千年前、気候変動あるいは火山活動によって島を離れていきます。沖縄での人骨の遺跡はこの頃からしばらく発見されておらず、北へ、北へと島伝いに本州に流れ着きます。古代人の島での永続は難しく、気候変動や人口の増加で捕獲する捕獲動物とのバランスが崩れると忽ち生存できなくなります。本州では80種類以上存在する哺乳類が沖縄では現在4種類しかいないなど、沖縄では様々な哺乳類が絶滅してきています。一般的に古代は島での数万年に渡る生存は難しいとされています。
さらに2万年前からの温暖化で暖流黒潮の流れが変わります。
それまでは日本のはるか南で海流していた黒潮が温暖化でルートを変え、沖縄から関東南を北上して南下するというコースになりました。黒潮は27度、時速9キロの海のハイウェイと言われる海流で南の豊かな海洋資源を日本列島に届けるだけでなくその温暖な海洋によって列島の気候を一気に温暖化させていきました。またこの急速な海流は350キロも離れた沖縄と本州を繋ぐ海の道としても機能したでしょう。すでに港川人の段階で公開技術を持っていた民はそれまでの筏を丸木舟に乗り換え、島伝いに丸木舟を横に並べて移動、航海をしたと言われています。因みに丸木舟を作るための丸のみ形石斧は1万2千年前のものが発掘されており、世界最古と言われています。おそらくその以前1万5千年前には船を作る技術が発達していたと予測されます。丸木舟と筏の違いは安定性は丸木舟、物資を運ぶのは筏と一般に言われていますが、荒波の黒潮を海流に乗って舟で移動するにはかなりの安定性が必要だったと思われます。
さて、港川人はこうして転々と島を伝わり、ついに1万2千年前ごろに本州に到着。
その後9500年前の大型集落 上野原遺跡(鹿児島県)で日本最古の定住跡が確認されています。本州の定住縄文遺跡が三内丸山の6000年前~4500年前、それ以前のものがあっても8000年前頃としても、かなりはるかに以前から南の縄文文化は始まっていたことになります。この時に作られていた土器が貝紋土器と言われ、表面が貝殻で意匠をつくられており、海洋性の民であったと言われています。さらにこの時の土器が底が平らで、同時代に本州で既に出ていた縄文土器(円筒土器など)の先が尖がったものとは全く違うものであり、南の縄文文化は北の縄文文化とは全く別系統で日本で始まったとされています。
やがて、7300年前、喜界カルデラの噴火が起きます。11300年前にも桜島で大きな噴火がありましたが、この喜界カルデラはその何倍も大きく、雲仙普賢岳の約100倍の規模があったと言われています。
>喜界カルデラの火山噴火を火山学者の町田洋氏の分析結果から再現してみた。
一度目は軽石を多く含んだ爆発である。狭い噴火口から勢いよく灰色の煙が立ち上がった。2度目は局地的な噴火。屋久島、硫黄島、竹島などを火砕流が襲った。そしてこれまでの爆発が予兆でもあったかのように、3度目の大規模な爆発が起きる。発砲した大量のマグマが一気に噴出した。噴煙柱が高さ3万メートルの上空にまで立ち上る、すると今度はその噴煙柱が一気に崩れ始める。そして高熱のガスと大量の溶岩破片を含んだまま、巨大な火砕流となって、猛スピードで海の上を走る。時速100キロを超える速度。同時に大地震が発生する。巨大なマグマを放出して空洞ができた火山の地盤が崩れたからだ。津波も発生。しかし津波より火砕流のほうが早かった。火砕流は大隈半島と薩摩半島の谷に押し寄せ、森を焼き尽くしていく。重い溶岩流は桜島より南で止まったが、塵を大量に含んだ高熱ガスの雲は重みを捨ててかえって速度を上げて上野原の台地にも襲い掛かる。
しかし最大の打撃はこの後やってきた。直後にあたりを覆う暗闇。大量の火山灰の雲だった。海底火山の噴火は海水交じりのべっとりした火山灰を降らせ、残っていた森に大きなダメージを与える。火山灰は成層圏まで上昇し、遠く東北地方まで飛んだ。太陽を遮った火山灰の影響で2~3年間は気温が低下、以後植生の回復まで500年以上の歳月が必要だったという。南九州で花開いた独自の文化は完全に埋もれてしまった。
では上野原の人々、南九州の人々は全滅したのだろうか?喜界カルデラの噴火を分析した町田氏は言う。「3回の噴火の間には数時間から数十日の間隔があった。火山に対して畏怖を持っていた彼らならば、逃げることができたのかもしれない」丸のみ形石斧は系統を同じくする円筒型の磨製石斧が黒潮の流れに沿うように高知、和歌山、八丈島などで出土している。このほかにも南九州が発祥地と言われる燻製施設「連穴土坑」が三重、愛知、静岡、関東と黒潮の沿岸に伝わっている。
つまり南九州で生まれた早咲きの縄文文化は、火山噴火を契機に東北を除く日本列島各地へと黒潮に流れて拡大していったのです。
さらにその後、気候の温暖化と共に東日本を中心とする縄文文化に繋がっていった。日本列島の縄文文化はこのように北の影響以上に南の影響をはるかに受けてきたことが推測できます。そういう意味で港川人とは縄文人の祖先であり、日本人のはるか昔の祖先にあたるのです。縄文文化は南からであり、本質的に海洋性文化(舟と漁労文化)であると言われる所以です。それは黒潮と火山の巨大爆発によってもたらされたのです。
投稿者 tanog : 2020年01月30日 TweetList
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