ロシアの歴史に“民族の本源性”を探る~プロローグ |
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2014年07月30日
仏教に未知収束の志を観る~ 第1回:アーリア人はインド社会に何を起こしたか?
>「不整合感が高まれば必然的に未知の追求に向かう」、この人類の特性構造を仏教、儒教発生時の状況、志を見て行く中で、一つでも二つでも見出す事ができればと思っています。
プロローグで提起した問題意識を受けて、仏教の誕生に至る外圧状況を見ていきたいと思います。
仏教はひとことで言えば、生きている世界を苦と捉え、そこから脱出する為にひたすら瞑想(追求)し、万物の因果関係を「空」という概念、いわば全ては繋がっているという世界観で捉えなおしたという事です。これは宗教でもなんでもなく、自然世界を注視し、追求の果てに精霊を見た原始人類の意識構造そのものです。
逆に言えば、仏教を生み出した社会状況は、弓矢を発明し洞窟を出て一旦、自然外圧を一定程度克服した人類に、新たな外圧を発生させたという事になります。それも相当に強い外圧です。その外圧の正体とは何か? それが初回のテーマ、アーリア人とインド社会の関係を明らかにして行く追求ポイントです。
インド・アーリア系の女の子。目は二重で鼻や口は大きいのが特徴。
インド社会は紀元前2600年頃に始まったインダス文明によって都市化、文明化します。
インダス文明は、イラン高原から辿りついた黒人、ドラビダ人と交易の民エラム人によって約700年間継続します。インダス川流域に栄えたこの文明ですが、気候変動に伴う洪水、乾燥化によって紀元前1900年頃に姿を消します。その後、インダス文明を作ったドラビダ人達は山岳地域に移住し、ガンジス川の上流、バンジャーブ地方に拠点を移します。
一方でコーカサス地方を拠点としていた印欧語族の一派(アーリア人)が、イラン高原の山岳地帯を越えてインドに入ってきます。おそらく、インダス文明が崩壊した地球規模の気候変動と時期を同じくしてこの時期に民族の大移動があったのでしょう。
コーカサス地方からメソポタミア地域は既に紀元前4000年以降から文明化の流れにあり、それは同時に土地と食料を巡る激しい略奪戦争があった事を示しています。戦争の勝者はそのままその地に残り、あるいはさらなる侵略の先として、地中海地域であるギリシャやローマへと向かいます。一方敗者は北へ逃げるか、東へ向かいます。コーカサス地方から数千キロ離れたインドに辿りついたアーリア人とは、決して勝者ではなく敗者、それも遠路はるばる来たわけですから少数でバラバラと辿りついた事でしょう。
そして山岳を越えてようやく辿りついたオアシス(バンジャーブ)に既に居たのがドラビダ人だったのです。アーリア人は何を考えたか?
既に都市文明を経験しているドラビダ人です。文化も宗教も社会も持っています。肌の色も言葉も違う白人のアーリア人は、まずドラビダ人の社会に入り込み、支配される事なく自らの社会を形成しようとしたと思われます。
アーリア人は敗者とはいえ、既に私権社会の住人です。彼らは他部族との関係は支配するかされるという関係でしか見ることができません。当然、ドラビダ人をいかに支配するか上に立つかをずっと模索していた事と思われます。少数で入り込んだが故に、人口比も圧倒的に少なく、武力では上に立てない状況のアーリア人は、頭脳(観念の力)でドラビダ人を支配していきます。アーリアとは「神」という意味です。ドラビダ人を支配する為に用いたのが神観念であり、神の言葉が聞ける民=アーリア人という地位を長い年月をかけて定着させていきます。
アーリア人が入り込んだのが紀元前2000年ごろとしたら、仏教が始まる前の紀元前500年まで約1500年間かけてバラモン教という観念を作っていったのです。バラモン教とは文字通り階層制度を宗教観念で正当化したものですが、階層化=社会秩序ですから、これが社会の隅々まで行き渡ることで強力な圧力を生み出すのです。バラモン教の経典であるリグベーダーが1000年以上かけ、膨大なエネルギーをかけて作られた事から、彼らの正当化の為の用意周到さ、観念力は凄まじいものであった事が推察できます。アーリア人がそこまで確固たるものにしたのは、ドラビダ人支配の為もありましたが、同時に後発隊でやってくる同部族への警戒心もあった事でしょう。後発隊のアーリア人に組み込まれては元も子もないからです。
一方、ドラビダ人を初めとして、インドにはガンジス川流域に多くの土着共同体が温存されてきました。
アーリア人はバラモン教で階層化を確固たる者にしていきますが、武力を用いた支配ではない為、共同体はそのまま温存されます。しかし逆に言えば肌の色が違う、言葉が違うというだけで、共同体丸ごと下位の階層に放り込まれます。釈迦が居た現ネパールの釈迦族もその一派だったのだと思います。徐々にそしてある日突然、アーリアの下に組み込まれる。仏教が始まる前のインド社会とは、アーリア人による観念支配がほぼ完成し、階層化、私権社会の秩序化の中で身動きが取れなくなっていた土着民達の不全状況が高まっていた時代だったと言えます。
改めてインド社会におけるアーリア人支配の特殊性を見ておきます。
インドはアーリア人(印欧語族=白人)が、ドラビダ人(黄色人種を支配するという構造)の異民族支配です。これは古代社会ではインドだけに現れた現象であり、これが直接的には、下層階級にかかる圧力の凄まじさを作り出していると考えられます。
異民族による支配は世界中にあります。中国でも北方遊牧民が農耕民を支配してきました。西アジアでもヨーロッパでも普通に存在します。しかし、インドが違うとしたら、何が違うのでしょうか。戦争に長けた百戦錬磨のアーリア人が、平和民族のモンゴロイドや黒人を支配するという構図が徹底的な支配を生んでいます。
歴史の流れで捕らえてみますと、4000年前ごろインドに侵入してきたアーリア人は、一貫して徐々に、豊な東方ガンジス川下流地域に向けて進出し続けています。このように一方的な力関係が長きに亘って継続することは、他の地域ではほとんど例がないと思われます。
中国では北方から南下して中原を押さえた支配民族は、支配しても、遊牧民同志の力は拮抗しており、次から次へと新たなる支配者がやってくるのであって、ある民族がある民族を数千年にわたって支配・収奪し続けるということは見られません。西アジア・イスラム地域でも同様です。
それに比べて、インドでは力(侵略性の強さ)の違いは圧倒的でした。ドラビダ人は一方的に、何千にわたり、押しまくられ続けてきました。支配関係・搾取の関係は激烈となり、それをカースト制度で固定してしまうことも可能となりました(肌の色の違う=人種が違うので、強固で圧倒的な支配共認が形成しやすいという点もあったでしょう)。
以上から、インドの原住民にかかる不全は、他のどの地域よりも格段に高かったのではないかと考えられます。
紀元前500年ごろ、都市国家=戦争の時代になり、それまでドラビダ人を支え続けてきた共同体の解体が一層進むに及んで(これ自体は中国でも同じ)、彼らにかかる不全は極限に達したと思われます。また同時に、共同体の解体は、全く新たな私権社会という関係性世界(未知世界)へと人々を放り出すことになり、未知への収束を促したと思われます。これがインドを未知収束へと導いた構造でないでしょうか。
仏教を誕生させるに至った原始人類の自然外圧同等の外圧の正体と何かについて言及しておきます。
上述したように、アーリア人の侵入というのがきっかけになったのは明らかですが、大きく捉えると、本源社会である共同体が武力なく私権社会に組み込まれる時の不整合感です。武力で力ずくでやられる場合は力の原理故に納得せざるを得ない、本能的に従うしかないのですが、武力でない観念の力で押さえ込まれた時に発生する何やら真綿で首を絞められているような苦しさです。それが仏教で言うところの苦の正体ではないか、そして圧力という言葉に置き換えれば、人間が人間を支配するという同類圧力が自然外圧同等に急速に高まったのだと思います。
仏教はこの圧力に対してどう考えたか
著書「科学するブッダ」の中で著者は以下のように書いています。
>矛盾の源はバラモン教の「人の価値は生まれで決まる」という前提であったため、まずここを否定する必要があります。人の価値が「生まれで決まらない」のであれば、いったい何で決まるか―。新たな宗教運動の人たちは「それは努力だ」と主張しました。
反バラモン教の立場に立って、努力にこそ人の価値があると主張した人たちは、その主張内容から「努力する人」と呼ばれました。インド語では「シュラマナ」といい、それが中国で音写されて「沙門」として伝わりました。現在の日本で沙門というと仏教のお坊さんを指すものですが、本当はバラモン教に反対して自分の努力で最高の幸福を手に入れようと考える修行者すべてが「沙門」なのです。このように反バラモン教という点では共通していても、どのような努力をすることで真の幸福が得られるのかという肝心なところで共通した見解はありませんでした。各人がそれぞれ独自の修行方法を考案し、様々な新しい宗教が並び立つ中で、仏教もその一つとして発生しました。
この「努力」という言葉を追求という言葉に変える方がわかりやすいと思います。つまり、この時代のインドの思想家達は仏教に限らず、アーリア人が作り出したがんじがらめの私権観念に対抗して真の追求の地平を求めたのではないでしょうか。
次回以降、その辺りについてさらに掘り下げていきたいと思います。お楽しみに!
投稿者 tanog : 2014年07月30日 TweetList
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