奥の院と日本の老舗企業の親近性~集団を存続させるには母系が適している |
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2020年11月20日
天皇家の金塊はどこにあるのか。
天皇家には莫大な資産があるとのうわさがあります。 あのロックフェラーがリーマンショックでロスチャイルドに破産まで追い込まれたとき、来日し、天皇に極秘に合っていたことは記憶に新しいですが、天皇家の資産をあてにしていたのでしょうか。
高橋五郎氏の著作『天皇の金塊』等の一部の書籍で、あたかも事実であるがごとく指摘されているのは、天皇陛下が古からお持ちの金塊が有り、それらはバチカン銀行、もしくはスイス銀行に預金されており、その金額16京円というのは世界のGDP合計値の37年分にも相当するのです。金塊として約4000円/gで計算すると、約4000万トンにもなるのだそうです。
これがもし本当なら、日本が所有する金塊量がまさに世界一だという事になるのです。
そのお金を貸して欲しいと言う事で、世界の王室などの大物たちが天皇陛下に謁見しに訪れるのだという事がまことしやかにネット上には書かれておりますが、そんな話が本当にあるのでしょうか?
】 【天皇の金塊(1)世界大戦の戦費は日本が賄った?http://mugentoyugen.cocolog-nifty.com/blog/2009/06/post-aa12.html
「M資金」の原資というのか、あるいは似たような話というべきか、「天皇の金塊」と呼ばれる資金があるという。
高橋氏の情報源の1つが、元ナチス・ドイツのスパイであるスペイン人・ベラスコという人物である。 高橋氏によれば、ベラスコは、南欧系・熱血漢で、戦時中、戦費の調達目的で、参戦国の戦費融資に協力する国際決済銀行BISによく出向いた。 ベラスコは、南米スペイン語圏の諸国と太平洋の島嶼を活動範囲に含んでいた。
高橋氏は、1988年に、日本人の国際金融ブローカーから、昭和天皇(日本皇室)所有で知られた金塊が、現在もフィリピン山中に隠匿されているという話を聞く。 高橋氏は、その当時、地下壕に隠されたゼロ戦探しを行っていて、国際金融ブローカーから、地下壕探査の知識と経験を、フィリピンでの金塊回収に役立ててくれないか、という依頼を受けた。 国際金融のプロたちは、フィリピンの密林から回収した金塊を、現金で買い上げたり、港に近い場所に確保していた。 フィリピンの新興財閥というのは、この「天皇の金塊」を掘り当てた山師のことだとも言われている、という。
土中から引揚げれた金塊は、鋳造して純度を高め、香港で取引される。 フィリピンにある精錬所の株主の大半は、チェース・マンハッタン銀行はじめ欧米の銀行で、しかるべき精錬所の手を経ないと、国際市場で流通する金塊は生まれない。 フィリピンの有力な精錬所は、マッカーサー家が経営するベンケット精錬所で、クラーク航空基地やスービック軍港が、金塊輸送に使われている。
高橋氏は、1980年の初頭に、ベラスコから、「昭和天皇の名義とされる秘密マネーが、バチカン系の銀行で運用されていた」という話を聞く。 それを、高橋氏は、ベラスコが真相を隠すために語ったのだと思うようになる。 ベラスコが隠したかった真相とは、「世界大戦に参戦した諸国の全戦費を、結果的に日本が賄った」ということだ。 高橋氏は、次のように書いている。
だが、私は80年代後半から現在までに北海道の地下壕に隠された金塊と、フィリピンの密林に隠された金塊の氏素姓を知り、それらの回収状況も知るようになった。特に「天皇の金塊」の回収事実が社会的な話題にならなかったのは国際金融ブローカーたちが回収を内密で進めてきたことにある。私は次々に回収される「天皇の金塊」が金融債券に化け、「M資金」だの「償還金」だのといった名目で政財界に黒いカネとして極秘に流通しつづける様子を国内で眺めつづけた。「天皇の金塊」は天文学的なデリバティブ取引の担保として市場を支えたのだ。
どういうことか? 高橋氏は、満州や中国アジア全域の諸国に、天皇の名において日本軍を侵攻させ、金銀財宝強奪を代行させ、その全責任を日本に被せながら、奪った金塊類は勝利国がすべて手中にする、というシナリオを示している。 余りにも通説的な理解とかけ離れた話である。
【天皇の金塊(2)ゴールデン・リリーと霞ヶ関埋蔵金】
高橋五郎氏は、『天皇の金塊』学習研究社(0805)の中で、フィリピンと日本の金塊の関係を題材にした2冊の著書を紹介している。 『失われた金塊の略奪者たち』と『黄金侍たち』である。 前者は、死亡直前のマルコス大統領とイメルダ夫人をハワイで直撃取材したもので、著者は、エリック・サン・ファンというフィリピンの若手ジャーナリストである。 後者は、「天皇の金塊」が「ゴールデン・リリー(金の百合)と名付けられていたことや、昭和天皇の従兄弟たちが強奪金塊の回収管理に従事した事実の一部を明かしている、と紹介されている。著者はシーグレーブというアメリカ人である。 これらの著書が邦訳されていないのは、日本の出版界が天皇タブーに遠慮しているからだろう、と高橋氏は言う。
高橋氏は、自民党の元幹事長・中川秀直氏が、「予算が足りなければ“霞ヶ関埋蔵金”を使えばいいじゃないか」と発言したことに触れている。 特別会計と霞ヶ関埋蔵金については既に触れたことがある(09年2月8日の項)。 しかし、高橋氏は、新聞や政府実力者たちすら本当のことをまったく知っていなかったようだ、と書いている。 本当のこととはどういうことか? 高橋氏は、この資金こそ、「天皇の金塊」を砕いた一部分から生まれた果実、つまり利息のことだ、と説明している。
中川発言に対して、与謝野馨氏が、「どこの特別会計を調べても、そんなお金は眠っていない」と批判した。 高橋氏は、それこそが、自民党が財政赤字を何で穴埋めしてかを隠そうとする余り、本音を語ったものとしている。 つまり、与謝野発言は、「そんなお金は実在する」という意味だというのである。
日本は、敗戦を認める2カ月前に、アジア12カ国から奪った巨万の富を、フィリピン各地の175カ所のトンネル地下サイトに隠し終えた。 1945年6月1日深夜、日本陸軍がフィリピン全域に設けた175カ所の地下貯蔵サイトの1つである「8号サイト」と呼ばれる地下倉庫の出入口が爆破され、崩壊した。 その中には175名の将官が別れの宴を催していたが、全員が生き埋めにさをれて死んだ。 彼らは、175ヵ所の地下サイトの責任者で、自分の持ち場を爆破処理して、8号サイトに集結していたのだが、騙まし討ちにあったのだ。
爆発直前に地下倉庫からエレベーターで地上に戻り、地鳴りを感じながら足早に立ち去る3人の男がいた。 その中の1人が、ベン・バルモス・ハーミンというフィリピン人で、深夜の現場で目撃したことを、アメリカの報道作家シーグレーブ夫妻に語り、夫妻がそれを上掲の『黄金侍たち』という著書にして公開した。 副題は、「山下財宝のアメリカ秘密回収」 となっている。 ベンの証言によれば、ベンと連れ立って8号サイトから立ち去った2人の軍人の1人は、陸軍中佐・竹田宮恒徳(昭和天皇の従兄弟)で、もう1人は、フィリピン防衛を指揮した陸軍大将山下奉文だった。
8号サイトを爆破した日からおよそ3カ月後、山下陸軍大将は米軍に投降し、竹田宮は6月に潜水艦で帰国した。 竹田宮は、戦後臣籍降下して、竹田恒徳となった。 竹田宮を、ベンはキムス・ムラクシと呼んでいた。 ベンは、シーグレーブ夫妻が持参した皇室アルバム写真を見て、直ぐにキムスを識別した。 さらに、秩父宮雍人陸軍少将、三笠宮崇仁陸軍参謀、朝香宮鳩彦陸軍中佐などの顔について、見覚えがあることをシーグレーブ夫妻に告げた。 これらの皇族たちは、1943年にマニラで開かれた会議の参加者だった。 会議の内容は、天皇の名のもとに、陸軍と組織化された日本のヤクザ集団たちが、中国の地下組織と組んで、アジア12カ国の政府の金庫などから略奪した「金の百合」をフィリピン全域の地下施設に隠す手順と進捗状況を確認するためのものだった。
チャコと呼ばれていた秩父宮は、アジアでの金塊と財宝の秘匿作戦の総司令官であり、マニラ郊外の地下サイトの監督責任者だった。 キムスこと竹田宮は、秩父宮を補佐する立場だった。
【天皇の金塊(3)金塊秘匿の地下サイト】
ベンは、サン・フェルナンドの前線本部で、数多くの民間人が働いているのを見た。 民間人は、天然の洞窟や地面を掘削したトンネルを繋いで、地下構造物を拡大新設する作業を行っていたのだった。 その地下構造物は、略奪した金塊類を退蔵する施設だった。 ベンは、8号サイトの地下空間の規模は、大型のフットボール球場ほどだと聞いた。 8号サイトは、周辺の自然洞窟とトンネルで結ばれており、8号サイトの出入口を爆破してしまうと、ほかの空間も連鎖的に破壊できる構造になっていた。 シーグレーブ夫妻が、『黄金侍たち』に記していることは、山下財宝神話として伝えられていた話が、事実だったことを示したものだった。
満州事変以降、日本軍兵士たちは、アジア全域で乱暴狼藉を繰り返した。 シーグレーブ夫妻は、その強奪ぶりを、「まるで巨大な真空掃除機が通り過ぎたように」と表現している。 つまり、根こそぎ収奪したということである。 日本陸軍の高級官僚は、日本将兵と黒龍会、玄洋社などの配下の荒くれ者たち、さらには中国の地下組織の構成員たちを総動員して略奪行為を行った。 集められた金塊類は、商戦半島から船と飛行機で日本に運び込まれた。 戦利接収品と呼ばれたそれらの金塊類は、日本銀行の本店、地方支店や、横浜正金銀行、第一銀行、三和銀行、博物館などに保管された。
金塊の一部は、金銀貨幣やインゴットに鋳造され、流通させた。 それ以外の金塊類は、陸海軍の糧秣廠倉庫に保管された。 月島の糧秣廠倉庫に保管された金塊類がアメリカ兵に押収された件については、安田雅企『追跡・M資金―東京湾金塊引揚げ事件』三一書房(9507)に詳述されていることは既に記した通りである(09年4月30日の項他)。
高橋五郎氏は、『天皇の金塊』学習研究社(0805)の中で、日本海軍が地下壕に隠した物品を追跡した自分の体験を記している。 北海道の網走の地続きの美幌の丘陵地帯にある自衛隊の駐屯地は、かつての海軍航空隊基地の跡地である。 その地下に、巨大地下壕が存在するという情報があった。 高橋氏の目的は、その地下壕内のゼロ戦発見にあった。 防衛庁の協力を得て、高橋氏は、巨大地下壕の出入口を、地下4メートルの地中で突き止めることに成功した。 その出入口を発見するまでに、10年間を費やしたという。 つまり、それくらい日本の軍人たちは、隠し上手だったというわけである。
1943年頃には、フィリピンと日本を結ぶ航路は、連合軍の潜水艦に封鎖されるに至っており、海上輸送が困難になっていた。 そのため、アジア諸国から強奪してきた金塊類は、フィリピンの地下に退蔵することになった。 敗色が濃厚になると、日本軍は、フィリピン国内に175カ所のトンネルサイトを構築し、それらのサイトに分散退蔵して、終戦直前にすべてのサイトの出入口を爆破した。 トンネルサイトの所在を示す地図は、キムスこと竹田宮が潜水艦で日本に持ち帰った。 金塊類は、天皇家所有の財産という意味で、1937年に「金の百合」と名づけられた。 宮中の歌会始の御題が「ゆり」だったのだという。
シーグレーブ夫妻は、自分たちは、次のような秘密の情報をもとにしていると言っている。 第一は、裁判資料とマルコス元大統領がマラカニアン宮殿から持ち出し忘れた資料とを照合して浮かび上がった情報である。 第二は、「金の百合」を国家予算の裏資金として活用した日本の大蔵省(政治家田中角栄)発行の債券を巡って、シティバンクほかの銀行と争ったアメリカの元司法省次官で弁護士のノーバート・シュレイたちの法廷闘争資料である。 第三は、終戦直前にフィリピンで山下大将の運転手から「金の百合」の在処を知った元アメリカ陸軍情報部軍人のサンティなる人物とワシントン政府関係者との間で交わされた資料である。
投稿者 tanog : 2020年11月20日 TweetList
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