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2020年10月15日

日本人の色彩感覚の底流は自然との同化から受け継がれている。

日本人の色彩感覚や美意識は、日本とその他の国に大別されるほど、特異な違いがみられます。それは、狭い国土と、辺境の島国により他国の侵略を受けなかったことにより、縄文以来、独自の文化を維持し、その文化を基礎に他国の文化を受けいれ、加工し、独自文化に塗り重ねてきた結果だといえます。 建築様式にしても、機能面の応用に加え、あくまでも美にこだわり続けてきました。 五重の塔の屋根を支える梁構造でも、中国伝来の放射状に伸びる梁構造とは異なり、屋根を支えるという力学的実用性に背を向け、視覚的な美しさを求めて四方に平行に伸びる平行垂木の梁構造が採用されて行ったのです。 西洋における貴族のための芸術と異なり、庶民にまでいきわたった芸能や娯楽の文化は、誰もが共感できる普遍的なものにまで洗練させていきました。 四季を感じ、自然をありのままに表現する能力は、他国民とは脳構造まで異なる進化をとげてゆきました。 こうした日本人の特質を生かし、プラスチックなどによる効率化一辺倒の工業社会から、自然素材による本来の性能を生かした日本らしい文化の再生を目指してゆきたいものです。

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CBN Color Business Network より

【色を生むもの】

日本人の色彩感覚を見つめようとすると、その背景にある日本人の美意識や生活意識に触れなければなりません。ところが私たち「日本人」という存在は、世界の人々とは大きくかけ離れているとしか言えないようなのです。この風変わりな日本人の色彩感覚について、その底流に流れる日本人の独自性から追ってみましょう

【日本人ってスゴイ!】

はじめに、「生き物」について考えてみましょう。

皆さんはペットのお葬式を体験されるか、少なくとも、お聞きになったりしたことがあるでしょう。サイトを開けばペットのお墓やお寺の紹介がズラリと並びます。このように、ペットのお葬式は、人間以外の生き物や無生物にまで魂を見出そうとする日本では、当たり前の行為です。ところが、欧米では、かなり奇異な行為として受け止められてしまうようです。欧米では、人間と生き物の間には大きな境界が存在しています。

次いであなたは、「大人」と「子ども」のどちらが「神様」に近い存在と思われるでしょうか?

この問いには、多くの方が「子ども」と答えると思われます。ところが欧米では、「大人」と答える人が一般的でしょう。

日本人には、子どもの未成熟な精神を純粋性と捉えることで神性と重ね合わせる姿勢が見られます。世界に類の無い文脈として、今や世界中で注目されている「COOL-JAPAN」。その文脈を生んだ基盤の一つが、この「子ども」と言う、未成熟な存在とその文化を肯定する姿勢にあります。もっとも中国で騒がれる「小皇帝」「小皇后」の現象に見られるように、日本ほどではなくても、東アジアなどの農耕文化には、子どもを尊重する姿勢は確実に存在しています。日本の文化や生活意識が欧米とは大きく異なることは日々感じられると思いますが、どうやら同じアジアのインドや中国とも大きな隔たりが存在しているようです。

結論として言えば、日本人は世界一ユニークな民族であって、幸か不幸か、世界を日本と日本以外の二つに分けることができるほどの大きな違いを抱えた民族と言えるのかもしれません。

【日本文化を育んだ地勢と歴史】

日本人とその文化に見られる明確な固有性は、いかにして形成されたのでしょうか?

この固有性が育まれたのは、日本という国の適度な狭さのおかげ?と言われます。沖縄を除いて、ほぼ共通の環境下にある上に、この適度に狭い日本全土は緑に覆われ、約7000年前に、今に続く温暖湿潤な気候と明快な四季が生まれ、以降、自然の変化と恵みを肌で感じ取って生活が営まれてきました。一方でこの狭さが、国土の隅々までの交流を可能にし、文化の均質化をもたらしていました。北海道の黒曜石や糸魚川のヒスイが日本各地の遺跡で発掘される事実が、縄文時代からの活発な交流を証明しています。

そして長きにわたる不可侵の恩恵に恵まれたことが、文化の固有化を決定的なものにしました。2000年以上の平和が、共通の感覚、情緒、生活を育む結果になったのです。日本語は2000年前頃に成立したと言われますが、欧州の地域言語だったフランス語が完成したのは18世紀とか。フランス革命直後の言語調査では、正しいフランス語が話せたのはフランス国民の一割強にすぎなかったという研究結果さえあるようです。アメリカは、皆さんご存知じのように、1492年にコロンブスの大陸発見(1492)、独立宣言は1776年という新しい国家です。

日本人は、「日本」の歴史が長いことを自覚していませんが、高度で自立した単一の文化体系が長く継続することは、世界史の中では異常と言える出来事です。日本は、極東の辺境において、長期にわたって独自の文化を育んだ結果、世界で一番ユニークな存在になってしまったのです。

【西欧文明との乖離】

日本の固有性を生んだ“不可侵の恩恵”とは、一言でいえば、世界で大きな勢力を誇った遊牧民の文化とキリスト教に代表される一神教の影響を直接に受けずに済んだことです。大陸の辺境に位置する上に、山がちで狭隘な島国であることが、大陸からの大量の人口移動を不可能にし、外来文化は、ゆるやかに融合、同化する形で受け入れられるしかなかったのでした

世界史では、近代化において、この二つの力に征服されたり、大きな影響を受けることが一般的な歴史の流れになっているのです。

西欧文化の骨格はギリシャ文明とイスラエル文明であると言われます。中世に欧州各国の国教となった、イスラエル文明から派生したキリスト教。そして、このキリスト教が生んだスコラ哲学によって、“理性”を絶対視して、人間は、科学技術によって自然をコントロールするものと位置付けられました。欧米が“子ども”に価値をおかないのは、理性が未発達と見なされるからなのです。

哲学者の梅原猛氏は、この西欧文明の基となった二つの国が農業国でないことを指摘して、近代西欧文明は自然を尊ぶ姿勢を持っていないことを示唆する文章を書いていました。

ちなみに、色彩心理学者の千々岩英彰氏による世界各国の色彩感情の研究において、好む色における欧米とアジアの差――アジアで好まれる白や、“優雅さ”を表す色の違い――欧米の黒に対してアジアがピンクであることから、アジアでは母系文化が、欧米では父系文化が垣間見えると述べられています。

【「日本」という奇跡】

日本人は幸いにも平和を享受して、自然に親しむ文化を築きあげてきました。日本人は、“絶対”の存在しない曖昧な文化原始宗教的なアニミズムの見え隠れする文化自然崇拝を旨とする文化を底流に残したままで、多くの国がうらやむほどの近代化を果たしたのです。

一方、不可侵の長い時間を費やして、相互信頼に基づいた長期的な人間関係を重視する姿勢も固まりました。征服され、隷属を強いられるような歴史を経験した国では、支配階級や上流階級と労働者階級との一体感が生まれるはずもなく、労働に対する責任感が希薄化してしまいますが、日本では、隷属を知らない歴史のおかげで、労働従事者一人一人が、社会の構成員である自覚と相まって、モノを生む出す真摯で完璧主義的な職業観が生み出されました。さらに、自然や周囲の魂を崇拝する姿勢なども相まって、労働行為にすら“道”を指向するような、深遠な精神性が付加されるに至ってしまったのです。

今では、柔道の国際試合で青い柔道着を見ることにも慣れてしまいましたが、日本国内の試合では未だに青い柔道着は認められていません。この、柔道が求める精神性を“白い柔道着”に反映させたい意志と、スポーツとしての観戦性、判定の容易さを重視する姿勢の構図は、そのまま、日本文化と西欧文化の対立の構図に他なりません。

こうして、「一億総中流」の幻想を持ち得た国、“ラーメンに命をかけるおっさん”がそこかしこに存在するような国、奇跡の「日本」が出現しているのです。

【文化大国&経済大国としての基盤】

さて、立派な?農業国だった日本が、西欧の論理や哲学の恩恵を抜きにして見事な近代化を果たせたのは何故でしょうか?それは日本が、古くから文化大国、経済大国として栄え、近代化の土台がしっかりと築かれていたからでしょう

紀元1000年前後に花開いた平安期の女流文学に始まり、大衆と言う文化の担い手を擁する文化大国が、既に江戸期に形成されていたのでした。江戸が当時世界最大級の都市であったことは広く知られていますが、当時の日本が、物質的にも文化的にも世界で一番豊かな国であったといっても過言でないことは、あまり理解されていません。し尿による肥やしと上水のシステムが、清潔な巨大都市生活を支えました。さらに日本は、米を経済基盤にした農業国というだけでなく、経済大国でもありました。世界遺産の岩見銀山が、最盛期に世界の銀の3割を産出していたように、江戸初期には、驚くことに、世界の金銀の産出量の1/4近くを日本が掘り出していたと言われます。

パリでは汚物を窓から投捨てていた時代に、江戸は100万都市として、生活のリサイクルも成り立ち、高度な都市文明を築いていたのです。外食文化を例に取れば、1900年に発行された「ミシュラン」のグルメガイドに先立つ100年以上昔に、「江戸料理屋番付」が存在しました。レストランの登場記録では、イギリスが1827年、フランスが1765年、そして江戸は、さらに遡ること100年の1657年(明暦3年)に出現したとする記録と、ヨーロッパで1700年代に登場した化粧品店が、江戸では1615年の店の記録が、それぞれ残っているようです。

また、当時の日本の教育水準は世界最高であり、庶民でも、階級を越えて俳諧・狂歌・長唄・三味線などの芸事を楽しんでいました。湯屋の壁に貼られた商店の宣伝ポスターや瓦版、立て札などによる情報の伝達システムは、誰もが文字が読めることが前提となります。ちなみに、19世紀初頭の英国での教育率は1/14で、読み書きは一部の貴族、知識階級に限られていたと言われます。

【美にこだわる日本人/建築構造に見る美意識】

奈良時代における日本の古代建築は、よく中国の古代木造建築の特徴を受け継いでいましたが、平安時代に入ると、日本の寺社建築に大きな変化が現れました。それまでの柱と梁の上に素直に屋根を乗せていた構造から、梁からわざわざ垂直方向の小柱を立てて、その上に屋根を乗せる二重の構造が採用されるようになりました。この「野屋根」と呼ばれる、屋上屋を重ねるような複雑な屋根構造は、当初は雨を素早く流すための急なこう配と、夏の日差しを考慮した長いひさしの両立を図るために工夫された屋根構造でした。その後、下部構造と上部構造を切り離すことができることから、建築構造の融通性が望まれ、「美しい屋根の傾き」を求めるために多用されていったのです。その他、五重の塔の屋根を支える梁構造でも、中国伝来の放射状に伸びる梁構造とは異なり、屋根を支えるという力学的実用性に背を向け、視覚的な美しさを求めて四方に平行に伸びる平行垂木の梁構造が採用されて行きました。   このような――世界に類を見ない、無理をしてでも「美」を求めるような日本人の美しさへのこだわりには感嘆してしまいます。あらゆる機会を通じて視覚的な美しさを求める姿勢は、日本人の生活の随所に見られるだけでなく、散り際にさえ美しさを求める武士道や、悪者でも美しさを求めた歌舞伎の敵役の豪華な衣装など、視覚を超えてなお美意識を希求する強い姿勢も感じられます。美意識と相まった高度な視覚文化は、日本の誇るべき特質にあげられます。

【自然に培われた日本の視覚文化】

美を求める日本の視覚文化が、恵まれた自然によって培われたことは確実です。繊細な自然観察が反映された『枕草子』(996-)に見るように、古くより日本人は自然との密接な関係を築いていて、自然の美を積極的に求めてきました。日本の美意識の礎とされる『新古今和歌集』(1205-)で語られた、「花鳥風月(the beauties of nature)」はその典型的な解答でしょう。

ところで、このような自然へのまなざしは、世界にも同様に存在したのでしょうか?この答えについては、英国の視覚文化について語る、高山宏氏の『近代文化史入門』(講談社学術文庫)を参考にしましょう。

◇英国の視覚文化の発達は、ニュートンの『光学』(1704)がもたらした!?

1660年、世界最古の科学協会である「ロンドン王立協会」が成立し、英国は17世紀にようやく科学の時代へと移行し始める。ちなみにニュートンは4代目の王立協会の総裁に就任。

そのニュートンも生涯で一番時間を費やした研究は「錬金術」だったと言われ、当時はまだまだ科学が未分化の時代であったことが理解できる。

このニュートンが太陽光の分光実験を行い、1704年に、色彩学のバイブルとなった『光学』を発行する。白色光が7色に分解される事実が世論を揺るがし、分解・分析の明快さが文学を席巻。結果、アクション表現主体だった英語に形容詞・副詞が倍増して、一挙に形態描写の精緻化が進んだ。この時期に、色の描写も詳細化し、色名も大きく増加したとされる。

『光学』に端を発したかのように、18世紀の英国は、「観察し」、「分析する」という科学的姿勢の高まりを受けて、「見る」ことへの快楽に目覚めてしまう。イタリアなどへの旅行熱(grandtour)が高まり、英文学における「風景描写」が成立して行く。「風景/landscape」、「遠足・遠出/excursion」、「スケッチ/sketch」、「構図/composition」などの言葉はこの時代に出現している。(以上、「近代文化史入門」よりのまとめ)

確かに、ミレーやコローなどに代表される風景絵画である「バルビゾン派(1830~1870頃)」が出現するまで、ヨーロッパには、純粋な風景絵画が存在していなかったことを思うと、ヨーロッパの自然観が、日本の自然観とは程遠いものだったことに気付かされるとともに、日本人の視覚文化が培われた歴史の長さにあらためて驚きます。そして今現在、世界を席巻しているファッション、アニメ、グルメの各分野には、確実に、日本の高度な視覚文化が反映しているのです。

【ヴィジュアル人間としての日本人】

解剖学者である養老孟司氏のエッセイに、脳損傷によって文字が読めなくなる失語症の症例について触れているものがあります。そのエッセイでは、外国人では全く読めなくなる症例しかないのに、日本人には、「かなが読めない症例」と「漢字が読めない症例」の2つが現れる――その理由として、外国語は音声、日本語は音声と図像の二つの対応があるからだろうと述べられていました。そして、この日本語の構造が、漫画の構造に酷似していること、故に日本人は漫画と密接な関係を持つことができる――と書かれていたように記憶しています。

12世紀に宮廷を中心に流行った「絵巻物」も西欧にはない存在でした。右から左へと、時間の経過と物語の進行が絡まって、時間軸と空間軸が交錯する構成は、世界でも珍しい表現と言われるようですが、この絵巻物の構造がアニメーションの構造と重なることは、以前から指摘されています。このような事例から、日本人が、視覚について高度な感覚を有していただけでなく、現在も、MANGAやANIMEというメディアを通じて、多くの老若男女たちが、“ある種の視覚文化”を深める努力?を重ねていることに思い至ります。

【日本人の視覚/視覚的情報処理能力の裏付け】

日本文化の中で、「借景」や「見立て」と呼ばれる視覚手法は、浮世絵や歌舞伎、和歌、俳句、造園にとどまらず、文芸などの多くの分野で見受けられます。例えば、落語の扇子や手ぬぐいも、「見立て」ることで、手様々な情景が演出できる小道具として重宝されています。

映画では、テンポの遅い?小津安二郎の作品は、能の「間」に通じるものとして、「間」の描写を特徴としているように思われますが、如何でしょうか?

このような、「借景」、「見立て」や、情報に満ちた「空白」の存在。そしてこのような手法を駆使してきた日本人は、共通の概念に支えられた特殊な情報処理能力、抽象化能力を所有していると言えないでしょうか?

江戸期に多く見られた判じ物の商店看板には、江戸時代の粋な遊びの精神が反映されています。そしてここにも、情報処理を前提とする、深い視覚文化が存在しているように思われます。

【日本人の色彩感覚】

ここまで、日本人と日本文化の特異性を紹介してきましたが、少なくとも日本が、長い時間を費やして高度でユニークな文化の蓄積を果たしたこと、そしてこの蓄積によって、生活の末端における事物にさえ、世界最高水準の美意識や技が反映されることが分かると思います。そしてこのユニークさが、世界との壁や軋轢を生むかわりに、未知の文脈として歓迎されてもいるのであり、同時に“ガラパゴス”と称される所以でもあるのです。

当然、日本の色彩感覚は、以上のように、世界で最もユニークで高度な文化に支えられて、構築されているわけです。もちろん、色彩には文化・国家を越えた共通性があることも明白で、前述の千々岩英彰氏による世界の色彩感情の研究において、人種も、風土も、文化も異なるはずの各国の若者たちが抱く色彩イメージには、多くの共通性があることも確認されています。

投稿者 tanog : 2020年10月15日 List  

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