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2006年12月02日

縄文人と弥生人の特徴の違いについて

こんばんはyuyuです。
 
いつも、読んで勉強させていただいている、「新しい日本の歴史」HPさんの中に、「日本人とATLウィルスの関係」というタイトルがあります。
http://homepage1.nifty.com/o-mino/page695.html
 
何ゆえ、歴史にウィルス?と、少し疑問に思ったので、ちょっと調べてみました。
 
 
■「二重構造モデル」
>そうした近年の諸研究から様々な渡来モデルが提唱されているが、一般的には埴原和郎の「二重構造モデル」が良く知られていよう。この説は「もともと日本列島にはアジア南部に由来する縄文人が広く住んでいたが、弥生時代になるとそこに、かつては中国東北部にいたツングース系の人々が朝鮮半島経由で流入した。その結果、彼らの影響の及ばなかった日本の南北両端の琉球人と北海道アイヌには、共に縄文人的な特徴が残った」、という考えである。
http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/161.html
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http://www.gmnh.pref.gunma.jp/demeter/demeter7-02.html
(群馬県立博物館HPより)
「二重構造モデル」って、古代史ファンの間では、結構有名なモデルなんですね。
先のATLウィルスもその特徴を表す要素の一つのようです。
では、その他の具体的な、縄文人と弥生人の特徴の違いって、どんなのがあるのでしょうか?
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身体的特徴からも、縄文と弥生のよりどちらの要素が強いか判別できるようだ。
 
 
●身体的特徴が語る証拠
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http://www.gmnh.pref.gunma.jp/demeter/demeter7-03.html
(群馬県立博物館HPより)
ちなみに、上記の表の中で、現在における耳垢の湿乾の分布はというと、
 
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http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/132.html
(九州大学ミニミュージアムHPより)
 
 
顔だけの変遷をCGで作られたものもありました。
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http://www.kahaku.go.jp/special/past/kao-ten/kao/mirai/img-pg/02.html
(大顔展HPより)
私達の周りの人も、どちらの特徴が強いか、なんとなく判別できそうですね。
 
 
その他の二重構造モデルの指標となる主な特徴を先の群馬県立博物館HPより抜粋すると
 
●人骨が語る証拠
○遣跡から出土した人骨の研究
縄文人の頭は現代のアイヌと近縁であり、弥生人や古墳人は現代の本州人と近縁であることがわかりました。また、歯の研究では、縄文人は小さい歯を持ち、弥生人や古墳人や現代日本人は大きい歯を持つ。
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http://www.museum.kyushu-u.ac.jp/WAJIN/132.html
(九州大学ミニミュージアムHPより)
●遺伝が語る証拠
○HB抗原の研究
東日本に東南アジアと共通の型が多く見られ、西日本では中国や朝鮮と共通の型が多くみられる。
○赤血球酵素GPTの研究
アイヌや琉球諸島の人々では数値が低く、本州では高い。
○ATLウイルスの研究
このウイルスがアイヌや琉球の人々に多く見られる。
○JCVウイルスの研究
東日本にMYタイプが、また西日本ではCYタイプが多い。
○ミトコンドリアDNAの研究
縄文人骨から直接得たDNAが、東南アジアの人々と近縁である。
 
●動植物が語る証拠
○イヌの研究
まず、南方からイヌが日本に渡来し、その後、朝鮮半島から北方のイヌが渡来したことがわかる。イヌは、家畜の中でも一番古いことから、ヒトの動きも同様に南方から縄文人が、そして後から弥生人が北方からやってきたことが示唆される。
○ネズミの研究
まず、南方系のキャスタネウス型が元々いたところヘ、後から北方系のムスクルス型がやってきたことがわかりました。ネズミは家畜ではありませんが、ヒトの移動と密接な関係があると考えると、前者が縄文人とまた後者が弥生人と一緒に渡来したと考えられる。
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http://www.brh.co.jp/s_library/j_site/scientistweb/no22/photo_05.html
○プラントオパール法
平安時代までの遣跡には焼き畑で栽培する「熱帯ジャポニカ」が多く、それ以後の遣跡ではほとんどが水田で栽培する「温帯ジャポニカ」であることがわかる。
※プラントオパール法とは
>イネ科の植物の葉には機動細胞珪酸体と呼ばれるものがあり、植物が枯死すると、これが粒径50ミクロンほどの小さい微化石となって土壌に埋まる。「このような植物に由来する土粒子のことを土壌学でプラント・オパールと呼ぶのである」、とのこと。これが面白いのは、土壌に含まれているプラント・オパールから種が判別できるだけでなく、定量的な分析によって、その土の上で育った(葉が動かされなかったという前提が必要だが)植物の総量が推定できるということで、たとえば水田址が見つかった場合、プラント・オパール法によって、その水田がどれぐらいの期間にわたって稼働していたかがわかる。
http://www.ywad.com/books/70.html
 
 
●モノが語る証拠
発見された遣跡の数から、縄文時代や弥生時代の人口を推定すると、縄文時代は、東日本が人口の中心であるのに対し、弥生時代は、西日本が人口の中心であることがわかる。これは、弥生時代に大量の渡来があったことを示唆している。
●言葉や風習が語る証拠
方言の分布を見ると、東日本と西日本とで分布が大きく分かれる言葉がある。例えば、『薬指』のことを、東日本では「クスリユビ」と言うのに対し、西日本では「ベニサシユビ」と言います。同様に、『鱗』は東日本では「コケやコケラ」と言い、西日本では「ウロコ」と、『梅雨』は東日本では「ニューバイ」と言い、西日本では「ツユ」と言う。
ヒトの気質には、分裂質と躁鬱(ソウウツ)質がありますが、分裂質は東日本に多く、躁鬱質は西日本に多いことが知られています。
 
  
思ったより様々な研究から、二重構造モデルの根拠つけとなりそうな結果がでています。
(逆にこれらの研究の積み重ねから、二重構造モデルが誕生したという方が正しそうですが)
また折をみて、各研究内容の詳細についても調べられればいいですね。

投稿者 yuyu : 2006年12月02日 List  

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コメント

中国と言えば、「宗族」→父系社会というイメージが強いのですが、いつごろ、どのように変わったのかが分かると興味深いと思います。

投稿者 iwai : 2006年12月4日 11:36

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