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2007年10月02日
沖縄の本源性の理由を探る~古琉球前夜の概況から
こんにちは。最近は、ちょくちょく、琉球の歴史のHPを見たりしていますが、「ニライカナイ」という言葉によく出くわします。確かに以前から、沖縄ソングの題名等にもなっていたりして、耳にのこってはいたのですが、あらためて意味を調べてみました。
万物の源・ニライカナイ
ニライカナイとは、神の住む海上はるかな遠い国であり、そこはあらゆる富、豊穣、生命の根源があるとされている。そして沖縄の伝統的村落には、ニライカナイから1年に1度神が訪れてきて、人々に祝福を与えて再び帰っていくという信仰があり、現在でも、その神々の来訪を演じる儀礼が、あちらこちらの祭りの中に残っている。
沖縄の穀物起源神話のなかのひとつに、次のようなものがある。
「海上はるか遠いニライカナイから、沖縄南部の東方海上に浮かぶ久高島に、麦、粟など五穀の種子が入った瓶が流れついた。しかし、その中には稲の種子は入っていなかったので、アマミキヨが天に祈り、鷲にニライカナイから稲の種子をとってくるように命じると、鷲は長い期間かかって3つの稲穂を口にくわえてきた。アマミキヨはそれをウキンジュ・ハインジュ(受け水・走り水)というところに播いた」
http://www.wonder-okinawa.jp/022/study/022_j46.html
理想郷のことを意味しているたんですね。
で、紹介されているように、沖縄の穀物起源神話の中に出てくる、「アマミキヨ」という神様が、ニライカナイからやってきて沖縄に穀物を伝えたという言い伝えがあるようだ。
<「アマミキヨ」が降り立った岬との伝説が残るハビャーン岬>
http://namoma.cocolog-nifty.com/blog/2005/11/post_e8d8.html
では、この「アマミキヨ」という神様がやってきて、稲作を伝えたのは、一体いつの時代なんでしょうか。
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ここで、日本の歴史をかじった人ならば、日本の弥生時代と同時期なんではないのか?と推測してしまいますが、実は、12世紀ごろのようです。日本では、平安時代の終わりから鎌倉時代に当たるころですね。
意外と、最近なのにちょっと驚きです。
稲作が伝わる以前の沖縄を貝塚時代、以降を古琉球時代といい、貝塚時代は日本では縄文時代から先の平安時代までの間にあたります。
貝塚時代は先史時代とも呼ばれ、石斧等の石器を使用して、狩猟採取によって暮らしていた時代のようです。
前期と後期に分けられ、後期には土器自体は使用していなかったようですが、縄文時代とイメージをダブらせることができそうです。
<仲原遺跡:沖縄貝塚時代中期の遺跡>
http://www.ocvb.or.jp/card/ja/0030000095.html
では、そんな貝塚時代に、稲作を持ち込んだ人たちは、どこからやってきたのでしょうか?
中国南部、さらには南方の島から黒潮の「海の道」にのってやってきたという説や、中国の戦乱から逃れた人たちが流れ着いた、モンゴル軍の難破船がついた、さらには日本からやってきた等、諸説あり、実ははっきりとしていないようなんですね。
しかし、その後の琉球が、農耕の広がりと共に、グスクと呼ばれる城塞を築き、戦乱の時代に入ったのとも重ね合わせると、かつての日本が中国や朝鮮からの人たちがやってきたことにより弥生時代という戦乱の時代に移行したのと同様に、やはり戦乱を経験している中国からやってきた人たちの可能性が高いのではないでしょうか。
その後の琉球は、地域ごとに別れ、やがて統一されていきますが、この時代の交易拡大の原動力一因として、当時、琉球では作れなかった、農機具や武器としての鉄資源の獲得であったようです。
このように、時代を下って、大きくは日本本土の歴史と同じような経過を経てきた琉球ですが、今なお、琉球の人たちに触れると、共同体性・本源性を強く感じられることがあります。
その一例として、現代でも、自然のなかに祈りの場や神秘を見出し、信仰の対象としている、自然崇拝の色彩が色濃く残っている地域でもあることがあげられます。
http://allabout.co.jp/travel/travelokinawa/closeup/CU20061129A/index.htm
また、共同体性が強く残っている事例としては、集落の数だけ方言が存在していたといわれる、沖縄における方言の多さにもその一端を垣間見るれそうです。
各集落では、貢納の義務を果たすため、村落ごとの団結が必要になった。そのため、人口や労働力の減少を防ぐ必要が迫られ、集落内の婚姻が優先された。他集落への対抗意識もあったようだ。
他集落との交流は大集落ほど行われず、このことで言葉にも差異が生じ、そのまま維持されていった。
http://www.okinawatimes.co.jp/spe/kotoba20010221.html
このことは、祭事における食事の振舞い方にもあらわれているようです。
かつては子供が生まれた家では、ご飯とタームジ(田芋の茎)の汁を大鍋にいっぱい作り、祝いに訪れた人はもちろん、近隣の子供や通りすがりの人にもふるまったそうです。
http://www.wonder-okinawa.jp/026/phi_2_2.html
このように、共同体性、本源性を残せた理由としては、
私権時代に突入した時期が短いこともあるとは思いますが、渡来してきた人たち(中国人?)が原住民を皆殺しではなく、服従させるといった形をとり、原住民を下位の身分階級として姿を変えてそのまま残存させたであろうことが考えられます。
15世紀ころ、琉球王国として統一された後以降、薩摩による支配後も琉球王国の形を保ち、日本が明治時代になり琉球を日本に編入させるまでは王国としての体制を保っていたことからも、大衆レベルのおいては、脈々とかつての共同体性・本源性を、残していたとしても不思議ではないでしょう。
その他、島国でかつ暖かい地域のため自然の恵みも豊かで生産性が高い時が多く、争ってまで奪い合う必要が薄かった可能性もあるのかもしれません。
日本本土の都会に暮らす現代人が、沖縄に惹かれるのは、自然が豊かに残っているからだけでなく、こうした温かい人たちが今なお変わらず暮らしているという点も大きな魅力の一つになっているからなのではないでしょうか。
投稿者 yuyu : 2007年10月02日 TweetList
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