【年末年始特集】シリーズダイジェスト『縄文から流れる日本人の本源性の中身とは?』 |
メイン
2009年12月30日
農耕生産は私権闘争には直結しない
現代でも農家の人って朴訥で所謂“人がいい”って人、多いですよね。「多く作り過ぎちゃった」と言ってはおかずを持ってきてくれたり、「美味しく出来た」と言っては近所に配ったり。これは例えば私権時代のまっただ中であってもごく普通の日常的な行為だったと思います。
ところで“私権闘争の起源は水稲栽培”と言う話しが定石となっていますが、それってホント?って思いませんか?
現代において、最も儲からない職業の一つが農業だし、上記の行為らも考えても最も私権から遠い職業のような気がするのですが、この感覚はずれているのでしょうか?るいネットに気づきのある投稿を見つけたので今日はそれを紹介します。
農耕生産は私権闘争には直結しない
食の本能は欠乏を充足すれば終いで「余剰」を求めることはありません。豊かな食料が闘争を生むならば、南方の採取部族が最も好戦的でなければならず、1の余剰説は現代の私権観念から逆追いで発想されたに過ぎないと思います。
2については、食料不足から同類闘争という事態が起こった可能性はあり得ます。しかし、江戸時代の農村共同体の「間引き」や農民一揆を考えても分かるように、このような生存確保のための行動は基本的に「集団課題」であり、それだけでは私権闘争~私権社会には直結しません。
3についても、私は環境問題が深刻化した現代の価値観がやや混在しているように思います。確かに、農耕という生産様式で人間は初めて大々的に自然に手を加えたわけですが、農耕技術自体は道具や言語の発明と同じ適応のための知恵であって、そこに特別な思想性はなかったと思います。現代のような深刻な自然破壊に至らしめた要因は、このような「技術」そのものとは別にあるのだと思います。
私権社会へ繋がる「私権闘争」の決定的な条件は、個人間闘争であること、つまり「集団」から「個」への意識の解体です。生産様式や技術がその背景になった可能性はありますが、突き詰めれば「個人が個人を所有対象or敵と見做す本質的動因は何か?」という問題ではないでしょうか。
ん~、やはりと言う感じでしょうか?
>私権観念から逆追いで発想されたに過ぎないと思います・・・
>現代の価値観がやや混在しているように思います・・・
とありますが、私も同感ですね。歴史を振り返る時、現代人の価値観や自らの価値観等それらを棚上げにして、ニュートラルの状態で当時の時代背景に同化しなければ中々本質は見えてこない。“私権闘争の起源は水稲栽培”はその一事例ではないかと思います。
投稿者 mrran : 2009年12月30日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2009/12/985.html/trackback
コメント
投稿者 tano : 2010年3月9日 01:02
コメントありがとうございます。
>ひとつ疑問というか違和感があるのが弥生人がその選択をとった理由に「気質」があったという事ですが、私はそれが縄文時代1万年間で作り上げられた自然崇拝を基にした「集団共認」だったのではないかと思っています。
そのとおりです。それを言葉をかえて、環境と気質からなるパーソナリティーと表現したわけです。そして気質に関しては遺伝的要素からなるものですので、脳科学からのアプローチが必要であると考えています。
弥生は縄文の流れの上にあるものですので、あくまでも縄文社会のあり方がベースになっているはずです。その上で、稲作という私権文化をこの国特異の形で表現したのではないでしょうか。一度輸入した私権文化は放棄しなくても、そこから発展してしまった争いを「落としどころ」で収めた、ということです。
投稿者 milktea : 2010年3月9日 07:01
ふたつ訂正です。
タイトルの王権の生産(本論)ですが、この(本論)は間違っていれてしまったものです。正しくは王権の生産2 です。(まだ続くので)笑
PTSDを心的外傷ストレス障害と記載してしまいましたが、正しくは心的外傷後ストレス障害です。「後」が抜けていました。
ごめんなさいww
投稿者 milktea : 2010年3月9日 07:10
コメントが遅くなりました。
>社会を構成する最小集団は家族である。<
これは現代においては確かにそうだと言えますね。
しかしそれがはじめからそうであったのかという疑問があります。
ちょうど別の追求テーマで「私婚→私権の発生へ」といったところを投稿しようとしていたので、このテーマとも論理をうまく合体できたら、そのあたりの構造化がより明確にされるのではないかと思います。
そうすれば、”家族”と集団の関係、集団におけるリーダーの役割、大陸から来た侵略部族とはどんな人々で、もともとの縄文人たちは彼らをどう受け入れたのか(支配されたのか)といったところも明確になりそうに思います。
投稿者 saah : 2010年3月12日 12:44
saahさん
コメントありがとうございます
>社会を構成する最小集団は家族である。<
これは現代においては確かにそうだと言えますね。
しかしそれがはじめからそうであったのかという
疑問があります。
これは、稲作が伝播した段階での話しとして記載させていただいています。また、コメントで記したとおり、家族の概念として、血縁関係があり、対人関係の成立する二人以上の集団としています。
「私婚→私権の発生へ」は、わたしもとても興味を持っているので、楽しみです。頑張ってください♪
投稿者 milktea : 2010年3月12日 15:22
王権の生産(本編)を読ませていただきました。
なるほど、と感じる部分はたくさんあります。
各クニの首長たちは、制圧するか、滅びるかの二者択一の戦争ではなく、その時点においての勢力基盤を維持しつつ戦争を回避する、連合体という道を模索し始めました。その連合体が機能するためには、連合を統一するための最高首長の存在が必要で、それ無くしては限りなく緊張状態が続くと考えたのでしょう。王の出現としては、極めて稀な手順です。
つまりこの国の王は、それぞれに思惑を含みながらも、首長層の合意によってつくりあげられた存在というわけです。
⇒日本において連合や談合が成立した背景をうまく捉えています。他国の王が力で勝ち取ったまさに武力の勝者であったのに対して確かに日本の大王にはその覇権性を感じません。
また、王は豪族間の持ち回りだったとも言われています。
部族間の連合を成立させる上で名目上必要だったのが王の存在だとしたら、それは権力の象徴ではなく集団間を構成する一段階上の秩序のようなものだったのでしょう。
まさに
>戦乱を収めるために連合体をつくりあげた列島の古代社会は、同時に王から奴隷に至るまでの社会的階層を生み出したとわたしは考えます。それでも、血で血を洗う戦争を繰り返すよりは賢明な選択であったと、言えるのではないでしょうか。
は言い得ていると思います。
ひとつ疑問というか違和感があるのが弥生人がその選択をとった理由に「気質」があったという事ですが、私はそれが縄文時代1万年間で作り上げられた自然崇拝を基にした「集団共認」だったのではないかと思っています。
その部分への反論や補足意見は別のメンバーから出していただけば記事は盛り上がると思います(^^)