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農耕生産は私権闘争には直結しない

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現代でも農家の人って朴訥で所謂“人がいい”って人、多いですよね。「多く作り過ぎちゃった」と言ってはおかずを持ってきてくれたり、「美味しく出来た」と言っては近所に配ったり。これは例えば私権時代のまっただ中であってもごく普通の日常的な行為だったと思います。
ところで“私権闘争の起源は水稲栽培”と言う話しが定石となっていますが、それってホント?って思いませんか?
現代において、最も儲からない職業の一つが農業だし、上記の行為らも考えても最も私権から遠い職業のような気がするのですが、この感覚はずれているのでしょうか?るいネットに気づきのある投稿を見つけたので今日はそれを紹介します。
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農耕生産は私権闘争には直結しない [3]
%E7%B1%B3%EF%BC%92.jpg食の本能は欠乏を充足すれば終いで「余剰」を求めることはありません。豊かな食料が闘争を生むならば、南方の採取部族が最も好戦的でなければならず、1の余剰説は現代の私権観念から逆追いで発想されたに過ぎないと思います。
2については、食料不足から同類闘争という事態が起こった可能性はあり得ます。しかし、江戸時代の農村共同体の「間引き」や農民一揆を考えても分かるように、このような生存確保のための行動は基本的に「集団課題」であり、それだけでは私権闘争~私権社会には直結しません。
3についても、私は環境問題が深刻化した現代の価値観がやや混在しているように思います。確かに、農耕という生産様式で人間は初めて大々的に自然に手を加えたわけですが、農耕技術自体は道具や言語の発明と同じ適応のための知恵であって、そこに特別な思想性はなかったと思います。現代のような深刻な自然破壊に至らしめた要因は、このような「技術」そのものとは別にあるのだと思います。
私権社会へ繋がる「私権闘争」の決定的な条件は、個人間闘争であること、つまり「集団」から「個」への意識の解体です。生産様式や技術がその背景になった可能性はありますが、突き詰めれば「個人が個人を所有対象or敵と見做す本質的動因は何か?」という問題ではないでしょうか。

ん~、やはりと言う感じでしょうか?
>私権観念から逆追いで発想されたに過ぎないと思います・・・
>現代の価値観がやや混在しているように思います・・・
とありますが、私も同感ですね。歴史を振り返る時、現代人の価値観や自らの価値観等それらを棚上げにして、ニュートラルの状態で当時の時代背景に同化しなければ中々本質は見えてこない。“私権闘争の起源は水稲栽培”はその一事例ではないかと思います。

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