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2008年05月31日

木を通じて縄文気質を考える

縄文時代の気質とは何か?
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「国際派日本人養成講座」の「国柄探訪:地球を救う自然観」の抜粋の中の木を巡る意識を通じて縄文時代の気質とは何か?を考えて見ます。以下は抜粋です。尚、この抜粋先の投稿は日本人の気質を示しており全文を一読して見て下さい。
■4.木も人も自然の分身■
 木が命を持ち、その命を大切にしようという姿勢は、木も人も、
自然の中で生かされている「生きとし生けるもの」の同じ仲間だと
いう考え方に基づく。
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木は物やありません。生きものです。人間もまた生きもので
すな。木も人も自然の分身ですがな。この物いわぬ木とよう話
し合って、生命ある建物にかえてやるのが大工の仕事ですわ。
木の命と人間の命の合作が本当の建築でっせ。
 わたしたちはお堂やお宮を建てるとき、「祝詞(のりと)」
を天地の神々に申上げます。その中で、「土に生え育った樹々
のいのちをいただいて、ここに運んでまいりました。これから
は、この樹々たちの新しいいのちが、この建物に芽生え育って、
これまで以上に生き続けることを祈りあげます」という意味の
ことを、神々に申し上げるのが、わたしたちのならわしです。
[7,p53]
 こうした大工達によって、法隆寺として生まれ変わった檜は、1
300年以上もの長きにわたって、人々から仰ぎ見られ、仏教学問
の中心として活躍したわけである。檜もさぞや本望であろう。
 それに比べ、現代の車やテレビは、せいぜい10年、ビルなども、
数十年程度で壊され、廃棄物として土中に埋めてられてしまう。人
間の勝手次第で、どれだけの自然の命が粗末にされている事か。


■5.神々の立ち並ぶ姿■
 巨大な木造建物には、大きな檜がいる。薬師寺の伽藍を再建した
時にも、直径2メートル、長さ15~20メートルの原木が必要と
なった。これだけの大きさになるには、樹齢2千年以上を要する。
西岡棟梁は言う。
 今から二千年、二千五百年前といいましたら神代の時代で
っせ。
 こんな樹齢の檜は、現在では地球上には台湾にしかありま
せんのや。実際に台湾の樹齢二千年以上という檜の原生林に
入って見ましたら、それは驚きまっせ。それほどの木が立ち
並ぶ姿を目にしますと、檜ではなく神々の立ち並ぶ姿そのも
のという感じがして、思わず頭を下げてしまいますな。
[6,p25]
 おそらく、古代の日本もこのような姿であったのだろう。我々の
祖先達は、棟梁と同様に、神々しい檜の原生林に頭を垂れ、同様に
祝詞をあげて、法隆寺や伊勢神宮、出雲大社などの建設にかかった
に違いない。
 最近、縄文時代の巨木遺跡が各地で発見されて話題となっている。
縄文の人々が、単に木の実や貝を拾って食べていたというイメージ
は大きく転換され、巨木建築を中心に大規模な集落を作り、また遠
地との交易も発達していたことが明らかになってきた。
 考えてみれば、法隆寺や出雲大社のような高度な木造建築が出現
するには、数百年、数千年という長年の技術蓄積があったはずであ
る。縄文時代の巨木文化が、そのまま継承されて、法隆寺などの木
造建築に生かされ、さらに現代日本人の自然観のバックボーンとも
なっていると考えてよさそうである。

■6.地球を救う自然観■
 世界有数の近代科学技術大国が、同時に世界第二位の森林大国で
あり、同時に古代からの自然観をいまだに根強く持っている、とい
う事は、世界史における奇跡と言ってよい。
以降は省略
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抜粋終わり。
精霊と共に活きて来た縄文人=日本人が見えて来ます。

投稿者 sakashun : 2008年05月31日 List  

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コメント

「人類の出現」や「狩猟・採集を行っていた人々の生活」の記述がなくなり、代わって追加されるのが・・・・
なぜなくなったんでしょう?
人類の出現はどこで教えるのでしょう?
縄文時代は教えなくなったんでしょうか?
以前昨年の新聞記事を元に下記の内容はどうなったんでしょう?中学の学習では縄文は不要という事でしょうか?
>学習指導要綱の改定作業を進めている文部科学省は11日、弥生時代から始めることになっている小学校社会の歴史について、時代をさかのぼって縄文時代も教えるように素案をまとめた。
mumu・・・ 他にも言いたい事がたくさんありますが、
他のコメントに譲ります。

投稿者 案山子 : 2008年7月7日 20:54

案山子さん、コメントありがとうございます。
新指導要領をよく見てみると、少し違っていました。
新指導要領における「人類の出現」や「縄文時代」については、「内容の取扱い」の中で、次のように記述されています。
「人類の出現にも触れること。」
「狩猟・採集を行っていた人々の生活が農耕の広まりとともに変化していったことに気付かせるようにすること。」
教科書から消えることは無さそうですが、扱いは小さくなりそうです。
テロや宗教対立もあり、宗教に対する理解を深めることに重点が置かれる授業運営になるのは間違いないでしょう。
縄文人の本原性に同化する機会が失われていくのは問題だと思います。宗教を扱うにしても、それ以前の精霊信仰についてしっかり扱ってほしいと願うばかりです。

投稿者 くまな : 2008年7月8日 00:52

>人々が稲作によってたくわえ(富)をもつようになると、社会のなかに、貧富による身分の差が生まれてきました。
たくわえ(富)をもつようになると、貧富の差が生まれるのはなんでなのですか?

投稿者 どわんご : 2008年7月8日 21:58

確かに、宗教に関する記述が増えていますね。
なんか国はまた、国家神道でも浸透させたいのでしょうか?
学習指導要領には“理解させる”とありますが、何のために?がないので、どうしてそれを理解させたいのか知りたいところですね。
また、歴史を面白くするのは、教科書ではなく、教師の腕ではないかと思うのです。
教科書で全部書いてしまったら、それ以上調べる必要がなくなってしまいますので、それぞれの歴史の事象において、教師が「これは何でだろうね?」と問うていく方が、より深まっていくように思います。
そういうやり方が、学習指導要領にでもあれば、良いのですけれど。。。

投稿者 杜若 : 2008年7月8日 22:13

どわんごさん、こんにちは~
>たくわえ(富)をもつようになると、貧富の差が生まれるのはなんでなのですか?
たしかに、たくわえが即貧富の差につながるわけではありませんね。そのあとで指導者の話しが続きますから、指導者とそうでないものの間に食糧の分配の違いがあったということですね。また、それ以前に食糧を個人個人の所有物として分配するという決まりがあるということですね。
そのような決まりは、渡来人にとっては当たり前だったかもしれませんが、渡来人を受け入れた縄文人にとっては、違和感があったでしょう。そういう決まりを受け入れなかった集団もあったはずです。

投稿者 くまな : 2008年7月9日 02:16

杜若さん、こんにちは~
>なんか国はまた、国家神道でも浸透させたいのでしょうか?
世界には色々な宗教があり、いろいろな考え方の人がいるので、それを理解しましょう、ということだと思われます。
しかし、そのような神々は自分たちに都合がいい神様たちばかりですから、人のいい日本人は飲み込まれてしまうのではないでしょうか。
あるいは杜若さんが危惧されるように、宗教の排他性を強調して国家神道を宣伝する教師も出てくるということでしょうか?
>歴史を面白くするのは、教科書ではなく、教師の腕ではないかと思うのです。
>それぞれの歴史の事象において、教師が「これは何でだろうね?」と問うていく方が、より深まっていくように思います。
その通りです。そうあってほしいものです。
歴史において、どんな社会の構造を学ばせ、現実に活かすか。そんな勢いのある教科書(板書でもいいです)を先生方が協働して創っていくってのは、期待しすぎでしょうか…

投稿者 くまな : 2008年7月9日 02:39

僕自身。歴史教科書や授業を振り返っての実感です。
何年に何が起きた…こんなっことがあった…どうもその記憶しか残っていません。正しいかどうかはわからないですが、むしろ教科書以外の本の方が、「なんで?」という思考に基づいていて、面白かったと記憶しています。
そもそも、指導要領の「理解させる」がとても気になりました。まるで、洗脳するかのような^^;その時代の人の意識を捉え、追求するような指導要領にならないですかねー

投稿者 さーね : 2008年7月10日 21:47

さーねさん、こんにちは~
>何年に何が起きた…こんなっことがあった…どうもその記憶しか残っていません。
同感です。でも、なんでそうなってしまうんでしょうね。テストや入試問題の出し方でしょうか?
でも、ちょっと考えれば、それが重要ではないことはわかりますよね。どっかでズレてしまっているんでしょうか???
>指導要領の「理解させる」がとても気になりました。まるで、洗脳するかのような^^;
そうですね。なんで理解させる必要があるかも書いて欲しいですね。
>その時代の人の意識を捉え、追求するような指導要領にならないですかねー
○○になったのはなんで?って書いて欲しいですね。
未明問題なんかあっていいですね。
考えた答え(仮説)をネットに投稿するのも面白いと思います。

投稿者 くまな : 2008年7月11日 00:38

また登場です。
>中学校の教科書は大きなストーリーは小学校と同等がそれ以下と感じました。事物の記述が詳細になっただけで、社会の変化やそれがなんでそうなったかといった理由が語られず、深まっていません。
くまなさんの感想、同感です。
でも、なんでそうなるんでしょうね。
小学校はまだ歴史の幹を教えようとしている。それに対して中学は歴史の枝葉を教えようとしている。幹を学ぶということがなんで?を追求することだと思いました。
そう考えると小学校の歴史って重要ですね。
疑問なのはなぜ中学では幹を教えなくなってしまったのか?
小学校でやっているから?幹を教えなくて歴史は教えれるのか?
歴史をどう教えるか?どう学ぶか?そこへの追求もこれからやっていくと面白そうですね。

投稿者 案山子 : 2008年7月11日 02:29

案山子さん、こんにちは~
>疑問なのはなぜ中学では幹を教えなくなってしまったのか?
小学校でやっているから?幹を教えなくて歴史は教えれるのか?
ちゃんと考えている教師であれば、現象の背後にある構造を考えさせ、学ばせるでしょう。現象ばかりが書かれているので、「なんで?」の宝庫なのですが、教師が教科書どおりに授業をやれば、歴史嫌いを大量生産することになります。
>歴史をどう教えるか?どう学ぶか?そこへの追求もこれからやっていくと面白そうですね。
その通りですね。まさに、歴史を学ぶとは何なのか、ということが、ボヤ~っとしているのではないでしょうか。
教科書を考えていくというのは、いいきっかけではないかと思います。

投稿者 くまな : 2008年7月11日 14:42

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