日本の支配階級の意識構造を解明する ~極東アジアの支配の歴史8 中国とインドシナ半島の関係 |
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2011年08月24日
縄文晩期とはどのような時代か?4~弥生への転換は戦争をともなったのか?~
このシリーズでは、これまで、縄文晩期の寒冷化の危機に直面して、渡来民と平和的に融合し、稲作などの渡来文化を積極的に受け入れていった様子を見てきました。
実際、弥生文化は水田稲作農耕をはじめ、数々の新しい文化を大陸から受け入れて形成されましたが、竪穴住居に住むという伝統と竪穴そのものの構造は大きな変化なく継続されています。また石器、土器、木器、骨角器などの製作技術およびそれに関連する使用の技術や慣行なども、いずれも基本的には縄文文化のそれをひきついだものだということが明らかになっています。
たとえば、石鏃、石匙、石錘などの打製石器が弥生時代にもよく用いられていますが、これらはいずれも縄文文化の伝統をひくもので、当時、東アジアの世界では、打製石器の技術はすでにほとんど消失しており、その技術は日本などの辺境に残存するに過ぎませんでした。その意味ではきわめて特徴的な伝統技術でした。
また弥生土器は一般に製作にロクロを用いず、600~800度の酸化焔で窯を使用せずに焼きあげます。この製作方法は基本的には縄文土器と変わりません。つまり弥生時代になっても、まったく別種の土器が作り始められたというのではないのです。
つまり、まず縄文文化が存在し、その中に外来の文化が取り入れられて、新しく弥生文化が成立した。つまり弥生文化を生み出した主体はあくまで縄文時代以来の文化の伝統だったと考えられるのです。
一方、日本列島で戦争と呼ぶような事態が起こり始めたのは、弥生時代からだと言われ、弥生への転換は日本列島の最大の激変期であったといわれています。
今回は、日本列島で、縄文晩期から弥生への転換がどのように進行したのかを追求します。
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実際、今まで発見された縄文人骨約5000体のうち、殺傷された縄文人の遺骨はわずかに15体。弥生人骨約4000体のうちの150体が戦いの犠牲者です。(寺沢薫「王権誕生」より)
戦死人骨は、福岡を中心とする北部九州で多数見られ、そのほとんどは面長で扁平という渡来系の人びとの特徴を示しています。このことから戦争は主に渡来系の人びとのあいだで行われたと考えられます。
実際、北部九州では、直接的競争の痕跡がたくさん見つかっている。まず、出土する武器の密度が他地域より高く、多数の磨製石器が弥生時代前半の遺跡から出てくる。さらに、武器が刺さったり、頭を切り落とされたり、武器によって傷ついたりした人骨の例も多い。
須玖岡本遺跡の「王墓の上石」 画像はこちらからお借りしました。
そして、紀元前2~1世紀の弥生中期後半には、中国渡来のたくさんの鏡と、朝鮮半島に祖型をもつ銅剣および銅鉾・銅戈を多数副葬する有力酋長の墳墓や、それを青銅製武器を1~2本ずつ副葬された戦士集団の墓地が、特定の限られた集落に現われる。福岡県春日市の須玖遺跡群、前原市の三雲遺跡群、飯塚市の立岩遺跡群などがその例である。これらの遺跡は、現実的な戦いもともなう直接的な競争によって、近隣の集落に対して支配的な立場をかちとった大集落だろう。政治的な集落間の階層秩序が、北部九州では他地域に先がけて成立したと考えられる。
しかし、植民者の影響がより小さかった東方の中四国や近畿などでは、直接的競争の痕跡はややまばらである。さらにこの地域では、弥生時代中期後半になっても、大酋長を戴く大集落が周囲に覇を唱える北部九州にくらべ、集落どうしの関係はもっと同列的である。
たとえば奈良盆地では、唐古・鍵、平等坊・岩室、和邇森本、新沢一などの拠点的な集落が、数キロほどの間隔をおいて並立している。近隣どうしで交流しつつも相互に牽制し合うことによって相応の安定が保たれているような、同盟型の集落間関係を作っていたと考えられる。それぞれに酋長はいただろうが、北部九州の大酋長のような特別な副葬品をもった墳墓は造らず、一般の人びとと同じ共同墓地の一角に葬られたと考えられる。
さらに遠東の北陸東部・中部高地・関東・東北南部などの各地にとっては、植民者や植民文化の影響はもっと間接的で、ゆっくりしたものだった。
画像はこちらからお借りしました。
神奈川県で見つかった弥生時代半ばの大規模な水田稲作集落跡である中里遺跡では、遺跡から発掘された土器から、摂津の渡来系の人びとがここに移り住んだことが判る。ところが渡来系の土器は全体の5%を占めるに過ぎない。残りの95%は地元関東の「須和田式」という縄文系の土器なのである。中里遺跡の主体はむしろ縄文系の人びとだったのだ。
「少数の渡来系の人びとが西からやってきたのを聞きつけて、地元の縄文系の人びとがこの地にわっと集まり、渡来系の人びとと協力しながら集落を築いていったのだと思います。その証拠に、この遺跡からは、鏃や武器など戦いの証拠を示す遺物はほとんど出土していません。地元の縄文系の人びとが渡来系の人びとの到着をいまかいまかと待ちわびていたかのようにも見えます。」
西日本では、圧倒的多数の渡来系の人びとが時に縄文系の人びとを蹴散らしながら勢力をひろげる場面も見られた。しかし東日本では逆に、多数派の縄文系の人びとが少数派の渡来系の人びとを平和的に迎え入れた。
これらの遺跡から、渡来人同志が争った北部九州を除くと、日本列島では、少なくとも弥生時代中期になっても、集団間の戦争やその結果としての富の集中した権力者は殆ど登場しなかったと考えられます。
遺跡からわかることは、縄文系の人びとと渡来系の人びとが、協力しながら、新たな生活を築いていく光景が、この時期、日本列島の各地で見られたということです。こうして「弥生」という新たな文化が生まれたのです。
参考)「日本人はるかな旅5~そして日本人が生まれた」NHKスペシャル
「稲作渡来民~日本人成立の謎に迫る」池橋宏著
「縄文文化と日本人」佐々木高明著
「王権誕生」寺沢薫著
投稿者 tama : 2011年08月24日 TweetList
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