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2013年10月17日

「神社ネットワークの解明」~3.神社ネットワークの歴史的な考察

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(上賀茂神社http://tsuiteru-happy-life.seesaa.net/article/28800801.htmlより引用)
前回記事で神社の概要を見てきましたが、神社は全国に数多くあり、誰もが知っている存在でありながら、神社がどうやって形成されてきたかは謎めいています
ましてや、それらがネットワークで繋がっているということは、あまり知られていません
神社ネットワークを解明していくためには、神社ネットワークがどのように構築されてきたかの歴史的な考察が不可欠になります
そこで、今回の記事は、神社ネットワークがどのように成立してきたかを時代順に見ていきます 🙄
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それでは、まずは縄文時代から見ていきましょう。
◆縄文人の基層文化
1.5万年前に始まるといわれる縄文時代は、日本人の基層をなすモンゴロイドという人種で形成されたと言われています。
このモンゴロイドは、出アフリカの時代に近い古い遺伝子をもつといわれ、その観念も本源人類のものを踏襲してきた可能性は高く、そのまま、日本に到着し、採取・漁労生産を営み、自然外圧に晒されながら、精霊信仰(アニミズム等)を行い、生き延びてきました。
彼らの精神世界は、自然を畏れ敬い、生き延びるために、自然の背後に精霊を見て対話を重ねてきました。その時代に必要であった情報は、自然の摂理そのものであり、その恵みも恐怖を全て受け入れ、それに従って生きること=外圧適応そのものであったと考えます。
このような背景から、自然崇拝・精霊信仰などの古神道の初期段階(→多神教的信仰)が発生したのだろうと考えます。
日本では、自然が豊かで食糧が豊富であり、トラブルも戦争も殺戮、略奪も少ない状況において、極東の地=民族のたどり着く最終地点としての異民族・異文化との共生や協力といった受容的関係が重要視されてきました。
◆大陸の略奪闘争と江南人
その頃の大陸や西洋では、5000年前頃、食糧不足や部族の大集団化、遊牧や都市国家の出現、馬の家畜化などの要素があいまって、民族同士の小競り合いから、略奪闘争が勃発しました。
この社会状況の中で、彼らが徐々に、より強いものへ収することで、二元論(善悪・強弱・陰陽など)、精霊信仰的多神教の信頼否定から唯一絶対の神=太陽神という信仰が登場し、その勢力が大陸を席巻し、中国の春秋戦国時代と言われる時代を迎えます。
◆ボートピープル・脱出・移住民
その結果、もともと本源性を残していた民族が、略奪勢力に押し出されるように、江南地方から日本列島・朝鮮半島に移住したのが、2500年~2300年前頃でした。
江南系住民は、戦争を経験はしていますが、日本人と同じく本源性を残し、縄文人と融合していったと推測されます。江南系住民の精神世界は、縄文人に近い文化をもっていたと考えられます。
彼らが必要とした情報は、自然の情報に加え、大陸の動乱による敵集団の情報(同類圧力情報)が必要になってきていたと考えます。そこで祖霊・守護神が主流になったと考えられます。
◆徐福到来
その後、2200年前に、秦の始皇帝の命を受けた徐福(徐氏)が列島に移住します。彼らは、航海術、医術、製鉄技術、稲作技術、祈祷、占星術などをもって渡来し、縄文ネットワークを利用し、各地に情報網を張り巡らせていきます。
このネットワークが初期の葛城ネットワークであり、神社ネットワークの基層をつくっていきます。
徐氏が最も必要とした情報は、敵の動き=同類情報であり、その他、政治・技術・軍事・祭祀の情報も学士である彼らは十分知り得た状況にあったと考えます。
物部氏や尾張氏、海部氏はこの頃、徐福≒葛城氏と一緒に渡来した民族ではないか?とも言われています。
その後、政治は葛城氏、技術は秦氏、軍事は物部氏、祭祀は葛城系賀茂氏に継承されていったと考えられます。
この頃、物部神道が展開され、神道として成立したと考えられます。
この段階では、共同体に根付いた信仰を残しつつ、ネットワーク化していったのだろうと考えます。
◆大和連合政権の成立
紀元前後~4世紀頃には、大陸や半島での動乱と建国が相次ぎ、日本へも多大な影響を及ぼします。
この時代に、もっとも必要とされた情報は、支配者にとっては、対外敵情報=同類情報であり、その結果、大王統治の連合政権である大和連合が誕生します。
◆古墳時代
対外敵戦略から、支配者は、祭祀から古墳造営に転換して半島の建国圧力より、渡来系の崇神王朝「大和朝廷」を建国していきます。4世紀頃に渡来した、新たな秦氏と葛城ネットワークから大和や秦氏側に付いた賀茂氏の一部(京都の賀茂氏)が多くの神社を作っていきます。
既存の古神道、物部神道に塗り重ねる形で、神社を作り、中央から祭祀と技術を地方に流布していったと考えられます。
この時代より、神社は様式化され、巨大化し、系列化が進んで、神社ネットワークが形成されました。
その目的は、徴税と中央集権への布石、対外圧力に対する戦略を葛城氏族主導でとったと考えられます。
しかし、あくまでも、有力豪族の母系集団のネットワーク、村落共同体を残存させつつ、観念支配をしていったと考えられます。
古墳時代後期には、葛城支族の蘇我氏が強い勢力をもち、高句麗の圧力が高く、百済系移民が相次いだ時期でした。
この秦氏・賀茂氏は後の陰陽道・修験道に繋がっていきます。
◆百済滅亡から国内統合へ
475年北百済滅亡、670年の百済滅亡を景気に、百済からの移民が大量に押し寄せます。
646年の乙巳の変・672年の壬申の乱にて葛城系氏族は対外政策に加えて、国内統合の必要が高まります。
伽耶系・百済系に共通する扶余族の持ち込んだ天孫降臨神話=現人神信仰に基づく万世一系の観念とそれに沿った系統や物語が作られます。
藤原氏・天武・持統天皇にて編纂された歴史書=日本書記がそれであったと思われます。
国内統合(共認)のための方便として偽装されていると知っていても氏族同士の国内統合がうまくいくこと、かつ、国外には古い歴史があるということを知らしめるためにも、必要でした。
(詳しくは、「大和政権の源流と葛城ネットワーク」最終回~葛城ネットワークは日本を守る共認ネットワークだった~http://web.joumon.jp.net/blog/2013/08/001518.htmlにて)
この天皇を中心とした組織化、中央集権化、観念化に寄与したのが4世紀に渡来・分派した秦氏・賀茂氏の作り上げた神社ネットワークだったと考えられます。
こうして、平安時代末期頃には、全国規模の神社ネットワークの完成形が構築されました。
注目すべきは、情報共有が困難であった時代に、わずか数百年で争うことなく大規模なネットワークを構築できたことです。
前回シリーズでも見てきたように、神社ネットワークは、武力による支配ではなく、共同体を破壊すことなく共認統合の裾野を広げていくことで実現できたと考えられます。
共同体を破壊しなかったということは、取りも直さず、共同体の祭祀を破壊しなかったことを意味します。
現在でも、各地方では、その土地土地の祭祀が残っているように、祭祀は、古代より共同体の祭りとして、日常に深く溶け込んだ日本人のDNAに深く刻まれている重要な業です。
そして、古代より祭祀の中心にいたのは、男ではなく『女』でした。
古代日本では、男性は政治、女性は祭祀をつかさどる存在として、自然の怒りを鎮めたり、五穀豊穣を祈ったり、様々な祭祀が執り行われていたのです。
その中で神を自らの体に宿す、いわゆる「依り代」となって、これを掌る女が「巫女」の起源と考えられます。
巫女の起源をさぐっていくと、女の力の源泉には「感じる力」があるようです。女性には、見なくてもわかる力があり、自然界や同類からいろいろなものを受け取るアンテナが立っていたようです。
そういう意味では、女は誰もが巫女だっとと考えられています。
昔はそういう女性の言葉を重んじて、男性が行動していていたようです
以上から、私たちは、神社ネットワークを具体的に構築していく上で、巫女の存在がなんらか関係があるのではないかと考えます。
そこで、次回は、巫女の起源でもある「神社成立前の共同体におけるシャーマンの役割を追求していくことで、本質を見極めてみたいと考えます。お楽しみに

投稿者 marlboro : 2013年10月17日 List  

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