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2013年10月22日
「個のない民、ケルトから学ぶ」7.ドルイド教~聖森の教えと学び~
みなさん、こんにちは。
『ケルトから学ぶ』をテーマに、宮崎駿の世界観から始めたシリーズも、これまでケルト社会の「察する」、「継承する」、「導く」を考察し、いよいよ最終回となります。最終回は、これまでの各稿でも登場した「ドルイド教」について考えてみたいと思います。
ドルイド教は、キリスト教の布教以前に存在したケルト社会の原始宗教で、そこでは「全ての自然に、神(精霊)が宿っている」と考えられていました。
ドルイド(Daru-vid)という名前の由来は、Daruが樫(オーク)、vidが知識の意味で、ケルト社会では「樫の知恵を持つ者」と言われています。強靭で大木となる樫は、「森の民=ケルト」の象徴でした。
そして現在、アイルランドやイギリスの一部で、キリスト教以前のドルイド教を復活させようという動きが生じています。そこで今回は、
★ドルイド教とは、どのような宗教であったのか?
★キリスト教社会のヨーロッパで、なぜこのような動きが生じてきたのか?
について、考察したいと思います。
●古代のドルイド僧 (ウィキペディア)より
◆ドルイド教について
ドルイドになるには、長い修行が必要で、時には20年にも及んだそうです。修行の内容は、今日で言うと、神学を含む哲学、自然哲学、天文学、数学、歴史学、地理学、医学、法律学、詩学、演説法などを学びました。
修行の場所は人里離れた洞窟や秘密の森の中でした。教義の伝授は全て口伝で行われ、文字に書き取られることはありませんでした。ドルイドの修行の初めは口誦伝承から行っていたようで、「語り部(フィーレや バード)」を経てからドルイドの修行へ入るという説もあります。
「文字として残す」習慣がないケルト人にとって、口伝えでの口誦伝承は重要な記録を残す手段で、宗教の教典や法律の規則、戦争の武勲の記録、家系図など部族の歴史は語り部の暗唱によって保持していたからです。
『紫堂ゆかりどう「ドルイド)』より
ドルイドの教えは多岐にわたり、20年に及ぶ修行が必要であったとされます。そして現在、アイルランドやイギリスの一部で、ドルイド教を復活させようという動きがあります。彼らは、自分たちのことを「ニュードルイド」と呼んでいます。これは、古代ケルト社会が文字を持たなかったこと、そしてキリスト教によって迫害されたため、古代ドルイド教の教えや儀式などが途絶えているからです。
現在のニュードルイドたちは、自然と密着し、自然を人間と同等と考え共存していくという世界観をもって集まっています。彼ら「自分たちは一種の主義というか、考え方を共有する者の集まりであって、宗教ではない。つまり、そこには絶対者もいないし、厳しい決まりごとものないのだ。」と言います。
●ニュードルイドの集まり(画像引用元)
ニュードルイドは、キリスト教から離脱して自然回帰する動きとも言えますが、このような潮流がなぜ生まれてきたのか?先ずは現在の主流をなすキリスト教の自然観を考察します。
◆キリスト教の自然観
キリスト教の場合、自然を創ったのは「神」という自然の外にある存在なのである。神がいて、人間がいて、自然がある。それは歴然と区別されているのだ。
神の代わりを人間がするようになっていく、神の意のままではなく、人間の意のままにした方がうまくいんじゃないか。そんな方向に進んでいくのである。
こういった考え方は、キリスト教特有のものだ。この延長線上に、自然科学が明確な形で打ち出されてくる。「人間と自然は異なる存在で、人間が自然を客観的に観察・考察する」という自然科学の考え方は、「神がこの世を創りたもうた」という論理とよく似ている。「神と世界」を「人間と自然」に置き換えているのだ。その後、人間はこうして生まれた科学技術によって「進歩」していくことになる。
河合隼雄著『ケルト巡り』より
西洋キリスト教社会では、人間と自然が別々に存在し、あくまでも人間中心主義であるため、人間の対立概念として「自然」が成立しています。従って、自然と人間が一体となることはなく、むしろ人間に圧力を与える対象として否定し、支配・制御する対象となってい。
では、キリスト教が普及する以前から存在していたドルイド教の自然観とはどのようなものであったのでしょうか?
◆ドルイド教の自然観
古代ヨーロッパ社会、ケルト民族の僧侶であるドルイドにとって、樫の木とヤドリギは最も神聖な植物とされていました。ドルイドは、魔術や呪術、医術などの知識を持ち、自然の様々な現象を感じ取り、現実世界と神秘的な世界の橋渡しをする賢者として崇められ、ハーブを巧みに 使う魔女のルーツであるとも言われています。
多くのものが死や眠りに向かう厳しい冬の風に吹かれても緑の葉を誇るヤドリギは、沈黙に潜む冬の恐怖を追い払い太陽を元気づけ、大地に生き続ける生命を称える冬至祭の主役でした。生命が降って沸いたような姿から稲妻によって天から降りて来ると信じられ、不滅の生の象徴として多産や幸福の祈りや悪霊除けに使われました。
『ドルイドの聖なる植物・宿り木』より
●ヤドリギ(画像引用元)
※ヤドリギは、宿主の樹木の葉が落ちた冬でも、緑の葉をつけています。
ドルイド教という土着の信仰では、森の樹木には精霊が宿ると信じられ、中でも樫の木とヤドリギは神聖視され、生命や活力の源であると考えられていたようです。
これらから推測されるのは、キリスト教のように抽象的な(頭の中だけの)絶対神を信仰する宗教ではなく、具体的な自然の一つ一つに神が宿る=現実に存在する自然そのものを対象化する自然観そのものだと思われます。
そして、この自然観はむしろ日本に近いと考えられます。縄文以来の日本では、人間と自然が一体であり、世界の全ては自然の中に包含されていました。「自然」と「現実」は同義であり、自然に対する「一体感」「同一視」が、万物を包摂した「自然観」を形成してきたと考えられます。
現在のヨーロッパは、経済的に破綻し、混迷の度合いを深めています。ヨーロッパ社会の秩序や意識の根底にはキリスト教の観念があり、この観念に導かれた結果が行き詰まりとなっています。
そしてニュードルイドたちは、キリスト教特有の “自然を意のままに変えよう、支配し続けようとする”西洋の自然観(世界観)に違和感を持って、キリスト教以前の根源的な世界に何かを見出そうとしているようです。ニュードルイドの動きをまとめると次のようになります。
1.否定から肯定へのパラダイム転換
新しい自然観は、キリスト教のもつ「否定⇒制御」から脱却し、自然に対する「肯定⇒同化」として登場してきた。
2.ヨーロッパの辺境に残っていた共同体
その動きは、キリスト教の観念支配(中心はローマ)から遠く、森の民の気質な残る辺境の地アイルランドから生じている。その集団の在り方は、権力や絶対者のいない共同体として存在している。
3.自然から学び続ける
その姿勢は、自然の様々な現象を感じ取り、現実世界に役立てようと志向している。それには20年以上の歳月を要し、学び続ける姿勢が重要となる。
ヨーロッパの辺境でこうした動きがあり、彼らの「自然から学び続けよう」という姿勢を、東洋で同じ辺境にある日本も学んでいくべきではないでしょうか。。。
投稿者 matuhide : 2013年10月22日 TweetList
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コメント
投稿者 名無し : 2016年5月23日 05:27
学ぶもなにも日本には神道があります。
途絶えることなく生活に根差しています。