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2007年02月22日
寒冷化により、まず穀物栽培に転換した
こんばんは。
『縄文晩期の気候変動が農耕につながった?』と、以前tanoさんの投稿にありましたが、今日は「生業からみた縄文から弥生」さんの論文から検証してみたいと思います。
さーねさんが前に、堅果類食糧について書かれていますが、縄文から弥生にかけての生業類型は概ね、
狩猟傾斜型→植物採集傾斜型→植物採集+雑・穀物栽培型→水稲栽培型(農耕)へと推移していきます。
ここで用語の定義ですが、
○栽培とは、植物の生殖を管理すること。
○農耕とは、デンプンの供給源としてのメジャーフードとなりうる栽培型植物の栽培を指す。
採集、栽培、農耕は明確に異なることが分かりますね。
さてどのように、採集→栽培→農耕へと推移していったか見ていきましょう。
応援よろしく!
BC1000~500年の縄文後期において急速に寒冷化が進んでいます。
少し長くなりますが、「生業からみた縄文から弥生」より引用します。
>問題となるのは,縄文後期以降に増えてくる草原種子の存在をものがたる証拠が何を意味するかである。これらは九州北・中部地方に集中して後期後半から晩期前半の時期に見つかっている。オオムギ・コメ・アワ・エンバクなどの植物遺存体,ヒエやコメなどのブラントオパール,籾痕土器,そして花粉がある。これらは縄文時代における雑穀・穀物栽培の存在を証明する証拠となりうるのであろうか。
九州で穀物栽培の痕跡が集中的に見つかっている?
>縄文時代後期中葉になると冷涼化に伴う東日本縄文文化の西進によって堅果類の採集-加工-貯蔵(保存)システムが西日本にもたらされた結果,植物傾斜型の石器組成が出現する。
打製石斧・浅鉢・アク抜き技術という道具と技術体系は,それまで利用できなかった根茎類や堅果類の利用を可能にした。
寒冷化で、東日本から移動してきた?
>それにもまして東日本から伝播した重要なものは,特定の食糧に依存できるのであればできるだけ効率よく収奪して長期保存するためのシステムだったのではなかろうか。その自然条件から食糧基盤が多種多様な半面,特定の種への依存が難しい照葉樹林帯では,常に特定の食糧源を求めていたと推測できるのである。そしてそこに伝播したのが雑穀・穀物類ではなかったかと考えるのである。
自然条件がかなり厳しかったのですね。
>朝鮮半島には落葉樹林帯を舞台におこなわれた畑作文化があった。そこでは磨石と鞍型磨臼の調理具・石鋤・石鎌と石庖丁の農耕具をセットにもちコメ・ムギ・アワ・モロコシ・マメなど各種の畑作物,ブタを飼育しながらも各種の狩猟動物に依存した網羅的な混合農耕をおこなっていたという。これらの落葉樹林帯を舞台にした畑作文化の情報が,縄文前期以来の外洋性漁業をなりわいとする漁民達をとおして櫛目文末期に併行する縄文時代後期後半から晩期にかけて九州に及んでいたのではないかと思われるのである。結合式釣針や石銛の分布と穀物類の出土範囲がほとんど重複しているからである。
朝鮮文化を受け入れた?
>東日本から西日本へ伝播した打製石斧や浅鉢に対して,打製石庖丁や打製石鎌は西から東へと逆の流れをみせる。縄文時代後期後半に中九州にあらわれ,晩期になると北部九州や南九州の台地部や西部瀬戸内に広まる。
この動きはまさしく有文深鉢の粗製化の流れとも一致している。つまり東日本縄文文化伝播による西日本縄文社会の経済システムの転換期に,朝鮮畑作文化の情報伝播があり,両者が交わって新たな西から東への文化伝播の母体となったのではないかと思われるのである。
なるほど!
>列島でもっとも早く水稲がつくられたのは菜畑(菜畑遺跡:佐賀県)の段階である。
北部九州に根をおろした雑穀と陸稲という特定種に依存するという姿勢が西日本の各地にも波及する。雑穀・穀物栽培が生業に占める割合はまだ低いといっても,それに対して社会の求心力が働くようになったのである。
以上から推測するに、
・西日本は植物採集加工型、東日本は植物採集保存型
↓
【急速な寒冷化】
↓
・東日本から西日本へ集団の移動=東日本の保存・貯蔵技術が伝播
+
【安定的な食糧調達の必要性】
↓
・朝鮮半島より穀物栽培技術の伝播
さらに、水稲栽培技術の伝播
↓
・水稲栽培が西日本各地に拡大
要するに、寒冷化による外圧適応の必要から、穀物栽培→水稲栽培が始まったと言えそうですね。
(eto)
投稿者 nishipa : 2007年02月22日 TweetList
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