道教~母系氏族社会を源流とした共同体規範 |
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2007年05月23日
遊牧民族の統合例
こんにちは。○です。
以前の記事でも取り扱われていましたが、今回は遊牧民族についての記事を・・・。
遊牧部族はその機動性から、戦争において卓越した戦力を保有していました
当然、歩兵中心の敵を蹴散らすのは造作も無い事です。
中国は宋の時代に、17名の騎馬兵に対し2000の歩兵で敗退する、というようなことまであったようですから、その戦力差はかなりのものだったようです。
そんな圧倒的な戦力をもった遊牧部族ですが実は大きな弱点があったのでした・・・
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遊牧部族の弱点とは・・・
組織としての恒常的な結束、団結力が弱い!
ということでした。
確かに有事の際には、各部族のトップの中から全体をまとめる人が担ぎ出され、その人物を中心にまとまるのですが、平時は部族ごとに好きにやっていたわけですね
当然、トップの力が弱まれば簡単に崩壊してしまいます。ですので、遊牧部族においては、戦力をフルに発揮するための組織作りが大きな課題でした。
ここに一つの答えを出したのが、日本人にもなじみがある(?)あの人です。
日本史を勉強した事がある人ならだいたい知っている『チンギス・ハーン』その人なんですね。
さて、彼のとった方法とは、
>チンギスはもともと強力な部族を後ろ盾に持たず、自らに忠誠を誓う戦士たちを集めることでのし上がってきた経歴を持つ。それゆえに、「部族制」そのものにメスを入れる作業に取りかかることができたのだった。 チンギスは、全遊牧民を95の「千戸隊」にわけた。これは、平時には行政、戦時には部隊の単位となるものである。このような組織は匈奴以来しばしばみられるが、部族ごとに編成するのがふつうの形であった。しかし、チンギスは創業以来の忠臣をほとんどの千戸隊の長にすえ、氏族や部族の掟にかわる「大ヤサ」なる軍律を定めることで、各隊を手足のように動かすことを可能とした。各千戸から兵を抽出して新たな隊をつくるなど、部族の枠をこえる試みも行っている。
また、各隊から素性のよい者の子弟をハーンのもとに集め、1万人の親衛隊を編成している。これは、有力者から「人質」をとるという目的のほかに、ハーンに忠実な人材を生みだしていく機能も持っていた。
もともと高い戦闘力を持っていた遊牧戦士たちは、チンギス・ハーンのもとで、機能的なトップダウン型の組織を持つにいたったわけである。彼はこの屈強な軍団を率いて周辺諸国の攻撃に乗り出すのだが、こうした軍事行動も国づくりの上で重要な意味を持っていた。 http://homepage3.nifty.com/ryuota/earth/history11.html
というように、新たに作った単位集団「千戸隊」のトップに自分の腹心を置き、共通する規律を作ったんですね。集団ごとの好き勝手にはやらせないよ、と。
しかも、平時には緩んでしまうという組織構造を抑え、
>ところが、チンギス・ハーンは逆に、あえて戦争を繰り返すことで権力を強化する道を選んだ。
遊牧民の国では元来、平時には部族間の合議が重んじられるものの、戦時には君主の命令が絶対視される。統制の乱れは全軍の命取りになりかねないからである。チンギスは、このしくみを最大限に利用した。すなわち、国をたえず「戦時下」におくことで、独裁権を行使し続けたのである。彼はみずからに「世界征服」の天命が下ったと宣言することで、イデオロギーの面からも戦争を正当化した。
というように、常時緊張状態を保つ事で、上の言う事に従わせたんですね。
このようにして勢力を広げた元は、史上最大の領土を持った国として有名です。もちろんご存知の通り、勢力拡大の途中、日本侵略も企てます。これが世に言う「元寇」ですね。これは結局『神風』 とも言われる台風によって、二度とも失敗に終わりますが、もしお天気がよければどうなっていたことやら・・・。
その桁外れの力を有していた元も、相続が続き、無数の集団を作り出すことになり、それによって集団の結びつきも弱まりました。内紛が頻発し、世界的な気候悪化によって基金や疫病が流行り、暴動も起こるようになってしまい、14世紀後半にはモンゴル高原へと引き返していくことになります
集団をいかにまとめあげるか。どうやらこれは古今東西どんなところでも抱えている問題のようですね。そしてそれが生命線であることも不変のようです。
投稿者 maru : 2007年05月23日 TweetList
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