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2007年12月05日
マリタ遺跡より極寒地での古代人の暮らしを垣間見る
こんばんは。
前回のエントリー以降、縄文人はじめ、古代人の人々の暮らしやその生活技術等に興味があって、ちょくちょくネット上を探索しているのですが、今回は縄文人のルーツと言われている、シベリアの旧石器人について、その暮らし等を紹介していきたいと思います。
以前、このブログでも、SimasanさんやHiroshiさんのエントリーによって、紹介されていますが、シベリアの旧石器人を参考にする上で、必ず紹介されるのが、マリタ遺跡です。
http://www.kodai-bunmei.net/blog/2007/06/000242.html
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/11/000386.html#more
今回は、主に、この遺跡を通じてシベリアでの古代人の生活ぶりを紹介させていただきます。
まず、マリタ遺跡は、何時ごろ、がどんなところにあったのか。
>今からおよそ2万5000年前、現在より平均気温が7~8度も低かった最終氷期に、人類は、シベリアに通年使用する「定住」的なムラを築き始めました。シベリアの古都イルクーツク市の北西80kmに世界的に有名なマリタ遺跡があります。2万3000年前のマンモスハンターの遺跡です。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/2/2-06.html
2万5000年前なんでんすね。シベリアというだけで寒そうですが、現在よりも平均気温が7~8度も低かったので、相当寒かったのではないかと思います。
ちなみに現在の、現在のイルクーツクの気温は、
>夏期の平均気温は15~20度程度。冬期は-25度前後と大陸性の気候。冬の積雪はそれほど多くはないが、夏は雨も多い。冬は-30度を下回る日も多いので防寒には注意が必要。
http://www.pref.niigata.jp/seisaku/kokusai/yuko/ru_iru/index.html
確かに冬は極寒といってもよさそうですが、実は、シベリアといっても、夏場は、私たちが想像しているよりは、暖かかったようです。
>「大陸性の気候のシベリアは、冬はものすごい寒さですが、夏は実に暖かいのです。今でも内陸の盆地では+40度近くまで気温が上がることがよくあります。氷河期もそれは同じでした。夏は気温が上がり、緑の草木に覆われました。動物の成長に適した豊かな環境だったのです」 実際、氷河期のシベリアには、こうした豊かな環境を示す「オープン・ウッドランド」と呼ばれる地域が、幅広い帯びのように東西に連なっていた。「開けた森」。疎林の間に草原が広がるアフリカのサバンナのような場所だったと考えられている。(「北限の古代史―1」「原人のフロンティア・極寒の地へ進出」)http://kodaisi.gozaru.jp/kitanokodaisiB/kitanokodaisi/manmosunoato/manmosu.html
とはいえ、冬場は、とてつもなく、寒いところに暮らしていたことにはかわりありません。
では、その冬の寒さをしのぐ為に、どのような工夫をしていたのか。
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>住居址は一般的には、深さ50~70㎝に床面を掘り込まれた竪穴式・半地下式の構造を示す。なかには、掘り込みが浅く、皿状になるだけのものもある。典型的なタイプのひとつは「ロングハウス」タイプと呼ばれる住居址で、他の一つは「ヤランガ」或いは「チュウム」と呼ばれる円形の平面形をもつ住居址である。
>こうした堆積状況から大量の板石やトナカイの角を住居の屋根材、恐らくはマンモスの毛皮製のテントを押さえるための重石として役割を果たしたと考える。ちなみに、短軸に沿う長さ1.5~2mのマンモスの牙は、構造物全体を補強するためのものと見られている。床面には、三個の炉跡が確認されている。シベリアの厳しい寒さを配慮した防寒用の構造になっていることがよく理解できよう。
http://kodaisi.gozaru.jp/kitanokodaisiB/kitanokodaisiB/marita/marita.html
<住居の外観>
<住居の内部>
なんと、マンモスの毛皮をテントとして、使っていたんですね。
とはいえ、真冬は、寒くて長くは、外にはでられなかったでしょう。
当然、狩にも出ていけないでしょうから、冬の間は、夏や秋にとった獲物を貯蔵しててべていたのではないかと思います。
半地下とすることで、その分、屋根を低くし、地吹雪から住居を守ったり、比較的温度差が少ない地中の空間を利用することで、寒い冬のシベリアに適応していたのではないでしょうか。
ちなみに、南に位置する、現代のモンゴルのゲルは、周囲をおおおうテント部の材料は、フェルトや羊の毛だそうです。
日本でではありますが、実際ゲルの中に入ってみると、テントが、周囲の風を遮り、結構暖かかかったです。
<ゲルの外観>
http://www.waseda-rovers.com/cgi/cat1/
マリタでは、主な、食糧は、トナカイ、マンモス等の狩猟による大型動物のでした。
<マリタ遺跡での狩猟動物の比率>
http://www14.plala.or.jp/bunarinn/dairyA/encarta/dairy/manmosu/manmosu.html
マンモスを多く獲っていたイメージがあったのですが、実は、主な狩猟対象はトナカイであったのは、少し驚きでした。トナカイやマンモスの他、ウマやバイソン等、ほぼ同数が、当時のシベリアに存在していたようですが、なぜ狩猟の主対象が、トナカイだったのでしょうか?
中央シベリアで狩猟と漁業で暮らしていた先住民族のサモエド族の事例より、少し考えてみると
>サモエド族の世界はトナカイ文化そのものでした。食料としてだけではなく、折りたたみ可能なテントとドームもトナカイの皮革で作られていました。
サモエド族はこれらのテントやその他の荷物を曳かせるためにトナカイを使いました。彼らのフード付きのヤッケはトナカイの皮革で作られていました。トナカイの毛は中空で、そして北極での使用に絶える耐寒性を有していました。
http://www.samoyed.jp/samoyed.html
<サモエド族が番犬、猟犬として飼っていた寒冷地に適応したサモエド犬>
http://pets.yahoo.co.jp/dog/zukan/dsearch_detail.html?sk=54&si=1
比較的、狩がし易すかったのではないかというのもその理由だと思いますが、マンモスが皮や骨がテントや生活品に利用されていたのと同様に、トナカイも食料の他、必需品として利用可能な価値が他の動物より高かったからなのではないでしょうか。
では。どのような道具を使用して、狩をしていたのでしょうか。
先のSimasanさんのエントリーでも、黒曜石のルーツとして紹介されていますが、細石刃を使っていたようです。
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/11/000386.html#more
>細石刃というのは、黒曜石などを割って剃刀の刃のように加工した石片を、鹿の骨などの両側面に植刃して槍の穂先のようにしたものです。シベリアに移動した人類は、この細石刃の槍でマンモスなどの大型動物を狩っていた。でも、人間が手槍でマンモスを狩ることなんて果たして可能なのか。それで実験考古学者が実際に細石刃を植刃した手槍を作ってみると、ものすごい破壊力で、動物の皮を簡単に突き破ってしまった。当時の人々はマンモスを池や沼地に追い込み動けなくなったところを、細石刃で仕留めたらしい。そうやって、夏の間に仕留めた肉を貯蔵して、冬の間はそれを食べていたんですね。
http://www.jissensha.co.jp/opinion/20040915-2.htm
>2万年ほど前、石器の小型化に力を注いできた人類は、細石刃という極めて細く薄い石器を考案します。細石刃は、組み合わせ道具の部品で、骨や角の軸に彫られた溝にカミソリの刃のように埋め込んで使うものです。人類は、この画期的な組合せ道具をたずさえ、ついには北緯72度にまで到達します。小さく薄い細石刃をはがし取る材料となるクサビ形細石刃核(細石刃を剥がす作業面がクサビ形をしている)は、シベリアを越えて、北部中国、朝鮮半島、日本列島、アメリカ大陸北部に分布します。特に、縦割りを繰り返しながら細石刃を量産する技法は「湧別技法」と呼ばれ、シベリア、日本列島に広がりました。
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/2/2-08.html
<湧別技法による細石刃製作の模式図>
http://www.pref.okayama.jp/kyoiku/kodai/saguru2-2.htm
<細石刃装着例>
http://kouko.bird-mus.abiko.chiba.jp/main/terms/index.html
このように、住居や衣服、狩猟等の道具を工夫改良し、そのことで極寒のシベリアの地域での暮らしに適応していたマリタに住んでいた古代人。
想像以上に、たくましく生きていたいたことが分かります。そして、その血が、日本に行き着いた旧石器人~縄文人を経て、私たち現代の日本人にも流れているだろうことを考えると、なんだか感慨深いものがあります。
マリタ遺跡では、生活日常品に関するものの他、マンモス牙製の女性小像が多く発見されたり、さらには性器崇拝等の儀礼、祭祀がおこなわれていた可能性もありそう。ここら辺は、先のHiroshi さんのエントリーによりますが、さらにご興味のある方は、追及いただけるとありがたいところです。
http://www.kodai-bunmei.net/blog/2007/06/000242.html
それでは。
投稿者 yuyu : 2007年12月05日 TweetList
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コメント
投稿者 案山子 : 2007年12月26日 18:39
くまなさん。記事アップされようとしていたんですね。失礼しました(笑)
>誰かがよみがえるのではなく、誰かの魂が戻ってくるのでもなく、充足や活力が再生され(続ける)ことを切に祈った、のではないでしょうか。
結構これ気付きでした。悲しみだけで終わらず、再生を願うことが集団の活力になる。なるほどと感じました。
投稿者 さーね : 2007年12月26日 19:34
私も、すごくじ~んと、ありがたい気持ちになりました。
よく『命を大切に』ってテレビとかで自殺や事件のたびに言われてますけど、そういうのって、こういう集団の、種の、切実なみなの祈りを背景にして初めて説得力をもって語れるんだなと思いました。
投稿者 みつこ : 2007年12月27日 02:37
胞衣(えな)に対し、そこまで思いを馳せることができたんですね。確かに、子どもの後に付いて一緒にごそっと出てくるんですよね。結構おおきくて無視できませんが、現代では、生まれた後は不要なものとして捨てられますね。医学的にその重要性は認識されていますが、胎内での話です。それを、生まれた後にも引き続き、意味づけしていたんですね。
投稿者 toya : 2007年12月27日 11:09
胞衣信仰は始めて知りました。そしてつい最近までその風習が残っていた事も。しかし私ぐらいの年代(40台後半)の人ならあると思いますが、自分の生まれてきたときのへその緒を親から見せてもらった事はありませんか?きっとそれも胞衣信仰の最後なんでしょう。するめみたいなそれを見たとき、気持ち悪いとは思いませんでしたね。親の子に対する切実な思いがへその緒を通じて伝わってきたようにも思います。
親が子の成長を強く思う気持ちと同じように子が親を通じて集団や社会といった外界を肯定的に見る気持ちは生まれてくるのでしょう。
まさにくまなさんがおっしゃる活力の再生産が子育ての中で行われていくのでしょう。年末にいい投稿を読みました。