マヤはインカやアステカとは違って、なぜ2000年もの長きにわたって、統一王朝が出現しなかったのか |
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2007年10月01日
改めて「縄文ブログ」の探求テーマを挙げてみました
○「今年の「縄文ー古代ブログ」を振り返って」、を参考に、現在までの「縄文ブログ」でまだ探求しきれていない、あるいはまだまだ疑問が多い項目を挙げて見ました。
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1 集団や集落の統合の体制・様式は?
婚姻様式は?
家族形態は?(一単位の集団規模はどのくらい?)
祭りはどんなことをしていた?
文字はほんとに無かった?
2 他集団との関係は?
略奪や戦争が既にあったのか?
奴婢・奴隷の存在は?
黒曜石やヒスイの行き来は贈与か交換か?
3 生産手段は?
稲作はいつごろから?どんな方法で?
栽培生産はどこまで行われていた?
鯨などの大きな獲物はどうやって捕獲した?
4 生活は?
食料・食事はどんなものを採取していた?
装身具は何のため?
「石棒」は何のために使った?
犬や牛や猫を飼っていた?
投稿者 ryujin : 2007年10月01日 TweetList
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コメント
投稿者 YUTAKA : 2007年10月16日 22:24
>馬と小銃、大砲をもってしても、マヤの最後の独立都市国家を征服するのになんと200年・・・
200年・・・ほ、本当ですか・・・!知りませんでした。
今だ謎が多いですが、地理説!有力かもしれませんね。
しかし、何世代にもわたって攻め続けるスペインも・・・どうなんだか。
投稿者 匿名 : 2007年10月18日 22:48
はじめまして!タイトルから日本の縄文時代専門と誤解してました。すみません。最近、歴史ブログに登録した新参者ですが、宜しくお願いします。マヤに統一国家が出来なかったのは、外圧対抗説が一番しっくりします。併せて、地理的条件は大規模戦闘に向きませんからね。広い大地を見渡すことが出来る場合、人はそこに欲を見いだし、征服欲は大いに盛り上がるでしょうが、密林地帯ではそのような心理になりにくいのかもしれません。人よりも自然の方がよほど強大な敵になりうる。自然を屈服させるのであれば、切り開くしかありませんが、彼らには共存共栄の精神の方が勝っていたのではないでしょうか。大きな国家を持ちたいという心理が発生しにくいのかもしれませんね。
投稿者 かし りょう : 2007年10月20日 16:54
>かし りょうさん
よろしくお願いします。
「縄文と古代文明を探求しよう」では、文明がどうやってできたか?検証するために日本ばかりでなく中国やメソポタミヤ、そして古代アメリカも探求しています。
古代アメリカ文明は、日本からみるととても遠いように見えますが実は縄文人とは兄弟のような存在で興味深いところです
投稿者 tamura : 2007年10月21日 15:47
>Anonymousさん
コメントありがとうございます。
地理説はかなり有力な説なのですが、弱点もあるのです。
マヤ文明の地域は現在冒頭の写真になるような密林に覆われていますが、古代の姿はどうも違ったらしいのです。
当時の食料生産(主にとうもろこし)は焼畑によって行われており、都市国家間のかなりのエリアは焼畑によって開けた状態だった可能性が高いのです。また都市国家間はジャングルを進むというのではなく石や漆喰で舗装された道路もかなり整備されていました。
投稿者 tamura : 2007年10月21日 15:56
>YUTAKAさん
マヤがアステカに比べて征服に時間がかかったのは事実のようですね。
一方アステカが短期に征服されたのは、アステカ領内でもアステカの支配に従わない部族がかなりあったようで、少数のスペイン人はこれを利用したということもあったようです。
投稿者 tamura : 2007年10月21日 16:00
色々な説があって興味が尽きませんね。
今後の展開が楽しみです。
その中で「地理」説の補強を一つ。
あのスペインですら(馬と小銃、大砲をもってしても、マヤの最後の独立都市国家を征服するのになんと200年もかかったとの事。かなり強力な事実かなと思いますが、いかがでしょうか?