シリーズ:『イスラムを探る』第7回 イスラム帝国の拡大と分裂 |
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2010年07月01日
『縄文の集団に学ぶ』第2回【縄文を学ぶ位置付け-2】
『縄文の集団に学ぶ』第1回【縄文を学ぶ位置付け-1】では現代社会の歴史教育の問題について扱いましたが、どういった弊害が考えられるでしょうか。今日は実際に土器の文様を長く研究されている学芸員の方より、現在の歴史教育に対する問題意識、また縄文時代を学ぶことの意義について紹介したいと思います。
小学生の歴史指導は弥生時代以降でよい、という教育方針が文部科学省からだされたのはかなり前のことである。
歴史を意識しはじめる年頃に、いきなり為政者の支配する歴史観から入ることになる。「何年何月、誰が、何を、行った」ということのみが、歴史を学びはじめる子どもらに教えるべきことなのであろうか?
歴史に名を馳せる為政者の現れる前、縄文時代は自然との共生によりなりたった社会。それも1万年を越すほどの長さ。そのことを別な視点から見通せば抜群の社会的安定度を保持していたことになるのだが、それはけっして原始=稚拙な社会であったからではない。それどころか土器に表された文様をとおして判読されてきたものには、自然と共生するための高度な野生の思考が解き明かされてきている。それも縄文時代中期の500年間の思考の積み上げとして。
この野生の思考は心理学者ユングの着目した無意識の世界のごとくに、現代社会においては深く沈みこみ表面的には失われた状態をつくりだしている。しかし、この野生の思考こそが現代社会でもっとも欠乏し、その必要性を発しているものに他ならない。このことを簡便に言い表せば、「もの」の存在を自己以外の「もの」に投影させて考える思考法、さらに平易にすれば、「母ならどうするであろう」、「父ならどうしたであろう」、という他者、他物に意識を投影して物事を認識していくということになる。
地球環境、自然との共生、リサイクル等々を未来を築く子どもたちへの重要な教育と位置づけるなら、縄文時代以前の歴史もおのずと重視しなければならない。
歴史を学ぶとは「他者、他物に意識を投影して物事を認識する」ことより抜粋。
まさに「自然の摂理」そのものをありのままに受け入れ、約12,500年という長い年月、他の歴史に類を見ない社会安定度を保持し続けた縄文時代から学ぶことは実に多くありそうです。
厳しい自然外圧の中、縄文時代の根底を成したとも考えられる「他者、他物に意識を投影して物事を認識する」思考方法で縄文人は何を実現してきたのか?また、外圧状況・時代認識が大きく変化した現代において、これらの思考方法から何を学び、何を創り出していけるのか?について今後も掘り下げていきたいと思います 🙂
投稿者 dai1028 : 2010年07月01日 TweetList
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コメント
投稿者 瑠璃姫 : 2013年9月10日 19:58
とっても役にたった♪