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2012年11月11日

日本の源流を東北に見る(7)~東北地方の「絆」の源泉を探る~

東北地方の特徴として次のことが上げられます。

「豊かな人と人の絆に基づく高い地域共同体意識」


  • 特徴ある祭り、伝統、文化が存在する。

  • 豊かな人と人の絆に基づく地域共同体意識が多く残っており、人々の温かいネットワークが暮らしの中に残されている。

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このことは311東日本大震災を契機により鮮明に人々の間で意識されるようになりました。そして、東北のみならずこれからの日本社会にとっても、“再生”が必要なものとして意識されるようになりました。
当然それは一朝一夕にできたものではなく、長い伝統の上に培われたのもです。今日は、この東北地方の「絆」の強さ、その源泉を探ってみます。それは縄文時代にまで遡ります。

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■縄文早期~贈与関係から共働関係へ
縄文早期は、気候の温暖化に伴い、採取・漁労生産を主体とした定住生活への転換期にあたります。
クリ・トチなどの豊かな広葉樹林帯に加え、川から得られる水産資源が豊富であることが、他地域とは異なる東北地方の特徴です。特に水産資源の中で「サケ・マス」は東北地方にとって欠かさないものでした。温暖化に伴い四季の変化が明確になってくると、冬に植物資料の入手が困難になるため、秋に食料資源を確保しておくことが重要となりまます。そこで、秋に川を遡上するサケ・マスは冬を迎えるための保存食として重要なものでした。

網は腐りやすいため、その遺物の出土例はありませんが、石錘や土錘が残っていることから、“網漁が”行われていたと推測されています。
縄文時代は、生産力が高い豊かな広葉樹林帯という環境の中、人口の増加に伴い次第に高まる集団間の緊張圧力を、お互いに贈り物を通じて友好関係をきずくことで解消していましたが、「サケ・マス」という豊かな水産資源をもつ“川”の周囲には、より多くの集団が集まり、自ずと深い友好関係が築かれたと思われます。サケ・マスは、秋という限られた期間に大量に出現する食料資源です。それを有効利用するために、複数の集団による共同漁が行われていたのではないでしょうか。
また、川の水産資源の利用は、植物資源以上に周囲の集団との関係が重要になります。縄張り内であってもある集団が遡上するサケ・マスを大量に収穫してしまえば、その上流の集団の収穫は減ってしまい、集団間の緊張圧力が高まりかねない。そこで、流域の集団による共同管理的な発想もあったかも知れません。
このように東北の文化や集団間の関係とこの地域の「サケ・マス」という食料資源との関係は密接なものがあり、集団間の贈与関係を超えて、複数集団での「共働」する慣習がすでに早期にできあがっていたと推測されます。これがその後の東北地方の地域ネットワークの基盤となり、「絆」の強さ・深さの源泉になったのではないでしょうか。
■縄文中期~集団同士の結びつきから地域社会への発展
温暖な気温適期の気候のもと、その地域で獲得できる資源により定住するシステムが確立します。
縄文中期、東北地方の食料環境は日本列島の中で最も豊かで、この地域には約4万人の人口が集結していたと考えられています(小山修三氏の説)。この人口集積地である東北では、これまで以上に集団間が隣接し、より高い集団間同士の緊張圧力が働きます。それを緩和するために頻繁に贈与や人材交流が行なわれ、他地域に比べより密な集団間のネットワークが作り出されていたと思われます。
この時期の遺跡は、500人が居住したといわれる三内丸山遺跡に代表されますが、実はその周囲に同規模の集落をいくつもかかえる拠点集落だったようです。
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巨大柱遺跡~このような巨大な建造物を作れたのも、サケ・マス漁と同様に複数の集団の共働があったのだと思われます。
この共働により作られた巨大な建造物は、複数の集落の生産課題を課題共認する“ハレの場”として機能し、それが東北の“祭り”の原点になったのかも知れません。
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もう一点注目されるのが、柱穴の間隔、幅、深さがそれぞれ4.2メートル、2メートル、2メートルで全て統一されていることです。4.2メートルというのは35センチメートルの倍数であり、35センチメートルの単位は、富山、新潟の遺跡でも確認されているので、「縄文尺」ともいうべき当時のものさしとして広い範囲で共有されていた可能性があります。ここにも、集団や地域を超えた共働や分業が伺えます。
■縄文晩期~逆境⇒より深い「絆」で適応
気候適期の温暖な気候に恵まれた前記と中期も生活から、冷涼な気候へと変化した環境下、資源の量が減少し新たな対応を迫られた時期です。
東日本では、関東では人口が約1/7に減少、中部・北陸も同様に大幅に人口が減っています。その中で東北地方のみ人口をほとんど減らさず晩期の寒冷期をくぐりぬけます。そればかりか、最も寒冷化した3000年前に亀ヶ岡文化を開花させ、その文化は遠く近畿地方まで影響を与え、晩期の縄文文化の中心的地域となっています。
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冷涼化した気候に対する第一歩は、縄張り周辺で新しい気候下でも獲得できる資源を探すことですが、それでも十分ではない時、次善の策として自集団の領域のなかにある資源を使って、他の集団に必要なモノを作るという、乏しくなった資源を分かち合う方策が取られたのではないでしょうか。個々の集団が周囲の資源を使い、それに加工により付加価値を高め、他の集団や地域と交流を深めました。この背景には、中期までに培われた広域な交流網があったと思われます。

例えば、宮城県宮戸島里浜貝塚の製塩の加工場。縄文時代晩期から弥生時代にかけての製塩炉とおびただしい量の製塩土器が発見されています。里浜ムラの人々は、夏に海水を煮詰めるための塩作り専用の薄い土器を大量に作って、塩作りに励みました。海草を焼き、「藻塩焼きJの方法で塩作りを行った可能性も考えられています。生産された塩や塩漬けは、ムラの贈り物として山のムラに運ばれました。
この晩期の東北地方の繁栄はなぜ可能だったのでしょうか? この時代に他地域から東北に寒冷化を生き抜く新たな技術が届いた形跡はありません。だとすれば、おそらく縄文早期から中期に培った地域ネットワークが基盤にあったのだと思われます。豊かな時代は互いに贈り物をしあいながら緊張圧力を解消し、一旦外圧が厳しい時代に突入すると互いに助け合い、何とか生き延びる。まさに集団の枠を超えた“共働”を軸に結ばれた社会が東北地方ではないでしょか?
■弥生以降から現代~受け継がれる「絆」
この東北の地域ネットワーク=共働の「絆」は,弥生以降にも引き継がれます。
弥生時代の早い段階で水田稲作を導入出来たのも、このネットワークの情報網の賜物でした(「(4)東北に根付かなかった水田稲作」を参照)。それは東北地方に根付くことなく、縄文以来の伝統的な狩猟・採取への回帰と畑での雑穀栽培を中心とする多品種少量の資源利用へと転換しますが、これも背後に集団を超えた相互に補完するネットワークがあったからできた決断だったと思われます。
さらに、ヤマト朝廷による本格的な東北侵攻(蝦夷征伐)対抗し、簡単にヤマト朝廷の支配下に置かれることがなかったのも、また、「金」「馬」「鉄」と日本海交易ネットワークを背景に東北に勃興した奥州藤原政権、中世日本海交易屈指の国際貿易港として繁栄っした十三湊などの独自の商業圏が構築できたのも同様に、地域ネットワークを基盤に発展したものと思われます。
■東北地方の「絆」の源泉
東北特有のサケ・マス漁、縄文時代の豊かさゆえの人口集積地、複雑で多彩な贈与の習慣、さらに自然外圧を地域で乗り切った一時代。それらは、他の地域にはない東北固有の事象であり、それぞれの共同体をつなぎ合わせてきた伝統ではないでしょうか。
このような縄文時代から綿々と受け継がれてきた強く深い「絆」だからこそ、東日本大震災という逆境を前に人々に力を与え、閉塞した日本の突破口として多くの日本人が“再生”を求めているのだと思います。





使用させて頂いた写真はコチラからお借りしました。
(リンクをクリックするとサイトに飛びます)
 1-1.青森県の奥入瀬川(リンク
 1-2.サケの群れ(リンク
 2. 石錘と網(リンク
 3. 山内丸山遺跡 大型掘立柱建物(復元)(リンク
 4. 山内丸山遺跡 大型掘立柱建物跡(リンク
 5. 遮光器土偶(リンク
 6. 製塩土器(リンク

投稿者 sai-yuki : 2012年11月11日 List  

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