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2022年10月07日
縄文文化の伝統を受け継ぐ「続縄文時代」―1万年以上にわたって育まれた北海道の続縄文時代とは、どのような時代だったのか―
北海道南西部を含む東北地方では、縄文時代晩期に1キロ平米あたりの人口密度で関東の5倍以上もの人々が暮らしていたことがわかっており、内浦湾沿いの遺跡からは、発達した漁労具が多く発掘されていて、漁が盛んに行われていたと考えられています。また、弥生時代が始まった後も米作りを受け入れず、縄文文化を継続させたとされています。
今回は、北海道の縄文時代とはどのようなものだったのか、弥生時代が始まった以降の「続縄文時代」とはどのようなものだったのかを見ていこうと思います。
〇北海道の縄文時代は、どういう時代だったのか?
祖先の霊を祀ったとされる大規模な環状列石や周堤墓が、北海道の縄文遺跡から続々と発掘されていることから考えると、食料の調達のみに煩わされる貧しい社会ではなかったことがうかがえます。祈りという精神的な行為を行うための場所を作る、大規模な土木工事にマンパワーを割けるだけの余力のある豊かな社会が形成されていたのではないでしょうか。例えば、9基の周堤墓が群集する千歳市のキウス周堤墓群で最大のものは、外径83メートル、高低差4.7メートルもある円形の竪穴式共同墓地ですが、この規模の墓を作るためには、50人で作業をしたとしても2ヵ月以上かかる大土木工事だったようです。
〇道南と道東で異なる縄文土器
北海道には縄文時代の遺跡が約7千あるといわれていますが、それぞれの遺跡で発掘される縄文土器を観察してみると、函館を中心とする道南エリアとオホーツク海沿岸や釧路周辺を中心とする道東エリアでは、その文様や意匠などに違いが見られ、それぞれ異なる歩みをしていたことがわかります。
道南は津軽海峡を隔てた本州の東北地方と行き来が盛んだったため、基本的に東北との強いつながりが見られます。例えば、函館市の大船遺跡で発掘された円筒式土器は、青森県の三内丸山遺跡で発掘された円筒式土器とほぼ同じ形状であるのに対し、道東で発掘される円筒式土器は、道南〜北東北の影響を受けつつも独自性があることが見て取れます。
〇弥生文化を受け入れなかった北海道の続縄文時代
弥生文化は今から2500年ほど前までには青森県にまで到達しますが、北海道の縄文人は米作りを受け入れることはしませんでした。北海道の気候は稲作を行うには寒冷だったこともその一因といわれていますが、食糧事情はもともと豊かで、鉄器の伝播により狩猟、漁撈、採集技術がさらに進歩したことで、あえて米作りを行う必要性がなかったからともいわれています。
こうして北海道の人々は、縄文時代からの暮らしを発展させながら、弥生文化の本州の人々と交易をする道を選びました。本州の弥生時代、古墳時代と並行する北海道のこの時代の文化を「続縄文文化」と呼んでいます。続縄文時代の遺跡から出土する遺物で特徴的なのは、鉄器や管玉、ガラス玉、南西諸島に生息するイモガイで作った貝輪など、本州の弥生社会で権威を示すような品々が多数見つかっていることです。こうした品々には高い対価が求められたはずですが、続縄文人は北海道でしか獲れない陸獣や海獣の毛皮と引き換えに、弥生の宝を手に入れていたのではないかと考えられています。
〇おわりに―独自の道を歩み始めた北海道
交易の民となった北海道の続縄文人は、4世紀に入ると寒冷化に伴い稲作ができなくなった東北北部への移入を始め、交易拠点を仙台平野から新潟平野に至るラインまで南下させた時期がありました。続縄文時代を通じ、北海道の民は交易民としての独自性を強め、のちの先住民族としてのアイヌ文化につながっていったと考えられています。
投稿者 anase : 2022年10月07日 TweetList
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