シリーズ「日本人の“考える力”を考える」第7回 共同体を繋ぐ神道と国家統合の為の仏教 |
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2010年10月01日
シリーズ「日本人の起源」(3)
先回の記事:シリーズ「日本人の起源」(2)では、日本人形成過程のシナリオとして、「置換説」、「変形説」、「混血説」があげられていますが、人類史の追求が盛んなヨーロッパでは、「置換説」が有力でした。
置換説は、いわゆる北方モンゴロイドがシベリア経由でやってきたという説で、先住民である南方モンゴロイドを完全に駆逐→置き換えてしまったという説です。
これを端的にビジュアル的に示すサイトがありましたので紹介します。
JOURNEY OF MANKINDというサイトです。
このサイト、おおよそ15万年前にアフリカを出発し、世界中に拡散していく過程が動画で見られ勉強になります。 😀
日本列島に人類(ホモサピエンス)がたどり着くのは、4.5万~4.0万年前となっています。
そしてそのルートは北方からのルート1本で、南方からのルートは見事にないものとなっています。 😥
もちろん現代では、日本人の祖先は北方モンゴロイド一色ではなく、南方モンゴロイドとの融合によって生まれたとする混血説が有力です。
北方モンゴロイドと南方モンゴロイドは、元はスンダランド発であることには変わりませんが、気候条件・食物環境・生活形態などどれをとっても異なる部分が多い民族です。
今回の記事は、日本人の祖先の一派となる「南方モンゴロイド」についてレポートします。
スンダランド周辺の人類については、考古学的な検証もかなりすすめられているようです.
■約5万年前頃スンダランドの海岸地域に、海洋適応戦略を成功させた新人段階の旧石器人が定着していました.かれらは東南アジア内陸部の熱帯雨林に展開した「礫器文化」に対峙するように、海岸や島嶼部を拠点に「不定形剥片石器文化」とよばれる文化を発達させます.この文化は、磨製石斧片、チャート製の台形状石器、スクレイパーに特徴をもち、九州島から列島内部に展開される「ナイフ形石器」が伴出しない特徴を持つとされます.
おそらく筏(竹か)などの渡航具を使用し、河川・海洋資源を主な生業とした漁撈・採集民であったと考えられています.彼らは、最寒冷期に向う気候変動の過程で生じたスンダランド地域の海進と海退の環境変動に促される形で、黒潮海域を活動の場として、外洋航行にも順応できる「海洋航海民」に成長していったと考えられています.
彼らはいわゆる南方モンゴロイドです。
北方モンゴロイドと南方モンゴロイドの違いは、 「日本人の起源1」 ~縄文人はどこから来たのか?~ に上手くまとまっています。
ところでこの「海洋航海民」という言葉は、大海原にでていく勇ましい海の民を想像させますが、丸太船程度の装備で、スンダランド(現在のフィリピン諸島あたり)から黒潮に乗って日本に流れ着くには、その期間の食料などを考えるとあまりにも現実性がありません。 🙄
ではどのようにして日本にたどりつたのでしょう? 😮
答えは現在の地形と、3~4万年前の地形では大きくその様相が異なることにあります。
下記の画像を見るとわかりますが、3~4万年前はスンダランドから日本列島までが陸づたい若しくは、島の連続であったと推定されています。
現在
過去
(これはグーグルアースや海溝の地形図でも確認できます。)
「海洋航海民」の実態は、海岸線を丸太船を使ってわたり歩きながら移動を繰り返し、東の果てである日本に流れついた、と考えるのがいちばんしっくりきます。 😀
ところでこの「スンダランド」という大陸、なんとなく神秘的なかおりがしませんか? 😉
スンダランド=ムー大陸という推測もあるようです。
日本 1 より
人類がアフリカを出発して拡散していった中でスンダ大陸に土着したネグロイドや古モンゴロイドが、大変住み良い環境で独自の進化を遂げ、農業・漁業や金属文化が始まり、しだいに高度な文明を築き、都市生活を営むようになっていった。気候温暖な高原地帯であったスンダ大陸の様子を『創世記』は「桃源郷」「エデンの園」「ムー大陸」と記したようだ。今は暑くてたまらない赤道直下も氷期となれば温暖な住み良い地域で、スンダ大陸は4万年以上に渡って黒人系や古モンゴロイド系のシュメール人やフェニキア人等(コーカソイド系の白人はいなかった)などが大いに賑わっていたが、約18000年前頃から南極の氷が溶け始め、北極の氷も溶け始めると徐々に海水面が上昇し続け、多くの陸地や島々が海没していった。地域環境の刺激で地上や海底の火山噴火、地震津波が数百年間続き、12000年前のある日突然、南極の氷河が、それまでにない規模で大瓦解を始め、北極の氷も大溶解し、連鎖反応の大津波、底火山も次々爆発し、大陸プレートの大きな移動によって大地震が頻発し、その被爆が地球全体に広がっていった。それらが1年2月も続いた。これが世界各地に今も残る「大洪水伝説」「ノアの方舟」の話になったと思われる。この時、船で逃れたシュメール人が各地の植民地に避難することにより、スンダ大陸の文明のかけらを世界各地に残す事になった。シュメール人の子孫、港川人も沖縄を経て鹿児島へと上陸し、日向や阿蘇などの各地に広がり、縄文人になっていった。
縄文人の祖先はシュメール人?? 興味はつきませんね。
画像は
「ブナ林と古代史」
「日本列島とその周辺の地形」
などのサイトからお借りしました
投稿者 chai-nom : 2010年10月01日 TweetList
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コメント
投稿者 投資一族のブログ : 2013年5月10日 21:21
わが闘争 上 民族主義的世界観 7/7 ~賛同しかねる民族規定
程度がまったく同じではない2つの生物を交配すれば、すべて結果は両方の親の程度の中間となって現れる。子供は両親の人種的に低いほうよりは、より高いかも知れぬが…