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2009年06月17日
NHKスペシャル「日本と朝鮮半島2000年」第2回放映
NHKスペシャル「日本と朝鮮半島2000年」~任那日本府の謎の第2回が先日5月31日(日)に放映されました。番組で報道された内容を切り貼りでレポートします。
戦前の日本の教科書には朝鮮半島南部の地域を任那と呼び、「わが国に従える任那」と呼んでいた。日本が半島の一部を支配していたという歴史観が明治時代から60年間続いていたのです。しかし、この記述は戦後見直され、「伽耶地方は小さな国に分かれていた」という簡素な表記に変わり、日本が朝鮮半島を支配したという事実はない事になっています。
一方、韓国での記述は以下のようになっています。
「高句麗が倭軍と戦う新羅を助けるために伽耶を攻撃する事になり、金官伽耶は大きな打撃を受けた。」倭軍は新羅に軍事的干渉をし続けていた事になっています。日本の干渉が金官伽耶の滅亡に関与しているかのような書き方で、日本側の認識とずれています。
韓国と日本での両国の古代史観はまだ途上にあり、諸説が並んで決着がついていません。
それでも韓国内で進んでいる遺跡発掘から徐々に日韓の古代の有り様が明らかになってきています。
古代の朝鮮半島と日本との関係は何が事実なのか?それがNHKのシリーズの一貫したテーマのようです。今回はその第2回目、4世紀~5世紀の韓半島内での倭国との関係について扱われました。
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■金官伽耶と大和政権
金官伽耶のテソンドン古墳から4世紀~5世紀の河内地方の大型古墳に多く見られる巴形銅器が発見されている。この時代、大和政権と金管伽耶の連合の証として配られたものと思われる。金官伽耶は当時、製鉄技術をもっており、多くの鉄を作り分配していた。倭はその一番大きな輸出先であるとされ、4世紀前半以降、鉄を通して金官伽耶と倭は交流を続けていた。当時、金官伽耶は南下した高句麗に度々脅かされていた。軍事力の弱かった伽耶は倭に鉄の見返りとして軍事支援を求め、倭人を伴って高句麗と戦っている。金官伽耶と大和政権は5世紀までは友好関係にあったと、見てよいだろう。
■百済と大和政権
また、この時代、別の視点で日本と朝鮮半島の関係を物語る遺物がある。
倭と百済の関係である。高句麗が百済を攻め込んだ4世紀鋼板に倭は百済を介して中国と交流していた。この倭と百済、その先にある中国南朝の関係に高句麗は脅威をいだいていた。
石上神宮に369年百済王が倭王の為に作らせて送った七支刀がある。
この七支刀は百済が中国南朝で得たものを倭へ送ったとされている。
この事から百済が高句麗との戦いの為に倭を取り込んだという説を説明している。
朝鮮半島と日本の関係は金官伽耶、百済という2つの地域、国を舞台に4世紀から7世紀までかなり密接な関係にあったことが伺える。それは大和が当時中国南朝との交流を積極的に行っており、その海洋経路に伽耶、百済があった。南朝との安定した経路を確保するためには伽耶も百済も失うことのできない地域であった。
記録に残っているだけでも大和王権と朝鮮半島の5世紀~6世紀の交流回数は以下のようになる。
百済 39回
伽耶 8回
新羅 2回
高句麗 2回
百済が極めて多いことに注目!
■朝鮮半島に前方後円墳が作られたのはなんで?
5世紀以降半島のヨンサンガン下流に13個の古墳が現れた。小さなもので13m、大きなもので70mの規模を有する。130mといえば、当時の日本では地方豪族のなかでも中程度の大きさとされ、かなりの大きな古墳ということになる。
この時代、百済は高句麗に漢城を攻め落とされ、熊津(ウンジン)に遷都する。百済の北半分を高句麗領土に占拠されたことになる。当時の王、武寧王は漢城地域の領土の代わりを南に求めた。ヨンサンガン下流地域はそれまでは地方豪族の領有地で百済の領地にまでなっていなかったが、古墳ができる前後に百済の占有地になっている。
この理由には4つの説が考えられる。
【説1】百済が在地の豪族に作らせた。
百済王が攻め込んでくる高句麗に脅威を与えるため、在地の豪族に命じて倭の様式と中国の様式を組み込んだ墓を作らせたという説である。百済は倭とも南朝とも連合していることを示すことで高句麗が攻め込むのを防げるという戦略である。
前方後円墳の石室のレンガに中国南朝のレンガが用いられている。
前方後円=倭・石室のレンガ=中国 を見る事で高句麗は脅威を感じたはずである。
前方後円墳は百済の危機を乗り越えるために作られた、という説である。
【説2】攻め込んでくる百済を牽制する為に、ヨンサンガン地方豪族が自ら作った。
この地方の豪族は百済の南下に脅威を感じて、当時既につながりのあった倭国との連携を強めたのではないかとする説である。
同時期の北九州の古墳である梅林古墳で見つかった鳥足文土器がヨンサンガン流域の前方後円墳でも発見される。また、百済では使われていない甕棺墓も多く見られる。
【説3】ヨンサンガン流域に定着した倭人が作った。
番塚古墳の石室はヨンサンガン流域のシンチョリ古墳と同じ作り方をしている。
石(腰石、天井石)の積み方、ベンガラを塗る方法など。ヨンサンガン流域と北九州地方の集落は鉄を介して交流が頻繁にあり、倭人が半島に住み着いてそのまま集落を形成した。
【説4】百済に協力した倭人が作った。
ヨンサンガン流域の古墳を作られた位置は在地勢力が少ない場所である。百済王が南方進出の基盤として倭人を利用して豪族が支配していない地域に誘致した可能性がある。
最南端の古墳は海に面しており、倭人の役割の一つとされていたのではないか。日本で作られていた甲冑や太刀が見つかっている。
ゲスト出演していた東洋大学の教授は【説2】を推されていた。
ヨンサンガンの前方後円墳の大きさは最大で70m有り、百済王の墓ですら20m程度だった事からして、おそらくは百済のコントロールの外にあったのではないか。
また4世紀から5世紀の半島南部と日本列島の関係は百済と大和という繋がりと、朝鮮半島南部と北九州の地方豪族がそれぞれに繋がって互いの交流を深めるという関係が併存して存在していた。そして海を挟んだ豪族間の連携は地域豪族の一定の独立性を保ち、全国的な勢力まで至っていなかった中央王朝との関係は、この時代バランスしていたのではないかと思われる。
※第2回の「任那日本府の謎」は謎のまま終わりました。
ただ、ヨンサンガン流域の前方後円墳についてはこれまでもほとんど扱っておらず、番組で扱われた事例からも北九州地域とヨンサンガン流域が密接に関係していたことは明らかになってきました。またヨンサンガン流域は任那4県とも言われており、継体天皇が百済に譲渡した地域はこの4県ではなかったかのでしょうか。(これは韓国の教授は明確に否定していましたが)
・・・ということになると、譲渡の前のこの地域は日本の連合下にあった可能性が有り、この地域から鉄が産出されていることからして、5世紀末に鉄のルートを金官伽耶滅亡により失った後、ヨンサンガン流域に求めたのではないかと思われます。私は説3が有力ではないかと思います。
次は第3回、たぶん7月頃の放映になると思いますが、テーマは仏教伝来です。7世紀のまさに混乱の時代に入っていきます。日曜夜10時NHK教育です。ぜひ皆さんもチェックしてみて下さい。
投稿者 tano : 2009年06月17日 TweetList
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コメント
投稿者 猪飼野 : 2009年8月7日 19:29
大山 元 著
古代日本史と縄文語の謎に迫る を読んでみたのですが、
それら土着の神は、アイヌを縄文人の後裔とみて
アイヌ語で読み解くとなんとまあ、地名から神話から
意味不明の名前や由来が読み解けてしまう
というものでした、、あらははぎ、もありました
まろうどもありました、
自分はアイヌのほうから気にかけてたので
まさか古代日本のそれこそ日本神話が読み解けるとは思いませんでした。
記紀は口伝であったものを書記したものですが、
それまでの主たる言語と倭語はだいぶ違うものみたいですね、
、そもそも倭語はどこから来たのでしょう
半島と言っても現代の半島の方言の差異をみても
だいぶ違う、、
一部半島の伽耶方言がかなり言葉をはしょり何となーく日本語
っぽいという指摘もありますが、どうも違う
まあ今の中国も共通語推進でしかも民族浄化、希薄化させてて
満州族などはもはや自分たちの字も読めない話も出来ないらしいので、もはや倭語の原型の語は何処にも無いのでしょうね
そもそもこの日本語、中国のワイ族とか、(首狩)
他の少数民族に近いのでしょうか
投稿者 おちゃやしたえき : 2009年8月25日 22:11
大陸みたいに、”悪魔”にされないだけマシだという事ですね。
投稿者 怨霊 : 2013年5月4日 14:36
民俗学から見た「アキハバラ」??
題名をさっと眺めて、「アラハバキ」を「アキハバラ(秋葉原)」だと勘違いして、なんだろ~と思ってしまいました。
後から来たお客様の神様のことだったんですね。
確かに世界中では争いが多いのに、日本では融合してしまうのは何故なんでしょうね。
侵略しようとしたら、「おもてなし」されて、「争う必要がないや。」と思ってしまうのでしょうか。不思議ですね。