イスラム教は、商人の宗教!①~イスラーム商会として台頭するまで~ |
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2009年02月06日
イスラム教は、商人の宗教!②~帝国を維持ためにとった方策とは?~
こんばんは~
第2弾です
前回の商人の宗教!①~イスラーム商会として台頭するまで~では、マホメットとその後継指導者であるカリフ(アブー・バクル)を経て、イスラームがアラブを統合するまでを見ました。そこでは、イスラームは宗教というより、経営組織の規約 といった感じで、活動の実態は、略奪・強盗 だったということが分かりましたね。
詳しくは、ぜひお読みください
本日は、3.さらなる冨の確保のための、略奪行為 から。
すでに一介のコンツェルンではなく、国家規模にまで成長していたイスラーム商会は、第2代カリフ(ウマル)の時代に領土をさらに拡大して帝国になってゆきます。疾風のように現れ、急速に拡大した、イスラーム帝国。周り(東ローマ帝国やペルシャやエジプト)もビックリです
それには一体どういったワケがあったのでしょうか?
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ありがとうございます
3.さらなる冨の確保のための、略奪行為
商人の寄り合い世帯が国家に発展するにつれ、イスラーム商会はマホメットが築いた当初の組織とは変わっていってしまいました 商業収益は戦利品や占領地からの貢物と比べるとはるかに少額です。そうすると隊商はますます軍団へと変貌していきます。「略奪でうまい汁が吸えるというのに、なぜ商取引に精出さねばならないのか?」という意識なのです。
そうして、アラブ自体の経済構造も、略奪品 、戦利品 によってまかなわれるようになっていきます。もともと穀物や生活必需品ですら輸入に頼る体制であったことも、拍車をかけたのでしょう。
そう、何が何でも拡大政策をとるしかなかったのです!!
こうして血の気の多いアラブ戦士たちは農耕地帯の略奪に向かいます
征服した土地については新しい徴税制度が敷かれました。
イスラム教徒でない者は、30%の人頭税ならびに地租を払わねばなりませんでした。
なので、多くの征服民がイスラム教に改宗しました。
宗教的には信者の拡大は大いに結構なのですが、しかし帝国はそれでは困ったようです
なぜなら、アラブの戦士へ支払われる給料の財源は、被征服民が従来の信仰を保持する代償として納める高い租税だったから。つまり、アラブ人の豊かな暮らしを支えるためには、「異教徒」の負担が不可欠だったのです!!
体制維持のため(=国民の目を外に向かわせるため)に戦争 を起こす。現代でもありますね。
また、このような徴税政策は国家体制の問題であり、即、内輪もめ=内戦に発展してゆきます。
4.アラブ世界を統合するための、教え
カリフ位の継承については、前任者の指名か実力者の合議によって決められ、全アラブ人の忠誠を得るという形をとっていましたが、やがて有力者同士の内戦に突入します。661年、シリア駐在の軍団を率いたウマイヤ家のムアーウィヤがカリフ位につき、680年にその子ヤジードが世襲したものの、混乱は続き、王朝が確立したのは692年のことでした。征服活動はウマイヤ朝のもとでも続けられ、西はスペインから東は中央アジアに至る史上空前の版図が現出しますが、750年アッバース家にとってかわられます。
そうするなかで、カリフ政権の正統性を支える根拠が、「アラブ人支配者グループの同意」から「イスラーム的な政治の履行」にかわってゆきます。アッバース朝の頃になると信者が増加した上に教えの体系化も進み、イスラームを政治の現場にどう生かすかが模索されるようにもなってきます。
イスラーム世界は、多くの国が分立していても、神に由来する「法」を通用させることで秩序と統一性を維持しようとしたのです。つまり、他の宗教と違ってイスラム教の教え(秩序)が法にまでなっているのは、まさに、拡大しきった帝国の統合のためだったのです!!
結局のところ、略奪行為だけでは国家は維持できないということなのですよね。
いかがでしたでしょうか?
戒律が厳しいと言われていますが、成立当初は略奪三昧の商人集団だったのです。
アラブ内の勢力争いの時は好き勝手に略奪していればよかったのでしょうが、拡大して帝国規模になるとそうはいきません。アラブの荒くれ者を束ねて帝国を維持してゆくために、厳しいイスラームの教え(戒律)に、あえて(回帰)収束していったのです!!
参考書籍、サイト
『商業帝国 原始イスラムの謎』金森誠也訳(元はH・G・ベール著『砂漠の息子』)
『地球人の歴史』10.唯一の神と地上の国
投稿者 mituko : 2009年02月06日 TweetList
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コメント
投稿者 鉄王神話 : 2009年4月8日 11:30
「鉄王神話」様、コメントありがとうございます。
出雲は重要ですね~。よく分からないのは、鉄を巡る瀬戸内海ルートと日本海ルートの関係。
以下のリンク先のように仮説をたててみたものの、今だ決定打にはいたらず、です。特に気になるのは、出雲(須佐)と豊国(宇佐)の関係ですかね。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=199478
これからもよろしくお願いします。
投稿者 怒るでしかし~ : 2009年4月16日 11:20
一世紀~三世紀頃にかけて淡路島の常隆寺山(=伊勢の森=栗村山)の播磨灘側(西側)山中の高台の黒谷地区に
当時、国内最大規模と見られる鉄器工廠(小規模な手工場では無く一貫生産のコンビナート)が先年発見、発掘調査~現在は公園化されて居ます。
「五斗・垣内(ごっさ・かいと)遺跡」と言います。
この時期の近畿で数多発見される鉄器の製造場所が長らく不明で謎でしたが、大阪、ヤマト側から隠蔽されたココで一手に製造~仕上げまでして供給されていた模様である。と判明しました。
倭国大乱と言われる時期と鉄器が近畿に伝播して行く過程と、五斗・垣内遺跡の稼働時期が重なって歴史のロマン(裏)を感じさせます。
因みに、このあたりの山あいからの播磨灘の風景は安土城付近からみる琵琶湖に酷似していると映画関係者が言っており、先般(去年)、北側10キロ程の山中に安土城の巨大セットを組み立て西田敏行?主演で作品「火天の城」が作られました。
投稿者 淡路島タヌキ : 2010年11月11日 16:52
世界的に見ても、石器→青銅器→鉄器時代というおおきな流れの中で、日本の場合、金属器の伝播が遅かったため青銅器時代が異常に短い歴史を持っています。
この観点から考えると、日本海にある安来や妻木晩田の遺跡群に興味が行きます。出雲が神話に載るほどの存在感があったのはやはり大和への鉄器の流通を握っていたと考えられ、大和朝廷勃興前夜の歴史が一歩明快になっていくのではないかと思ったりします。