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2009年06月25日
岡田英弘史観に学ぶ~中国とは、倭国とは?
モンゴル史研究の大御所岡田英弘氏は「中央ユーラシアの草原から東と西へ押し出して来る力が、中国世界と地中海世界をともに創り出した」という視点から世界史、日本史を見直されている。岡田説は、江上波夫先生の騎馬民族国家説と並び、従来の西洋中心史観あるいは中華中心史観の世界史の限界を超える上で重要な視点ではないだろうか。
ネット上でも、注目すべき書評がアップされているので紹介したい。まずは、岡田氏の中国とは何か?についての考察が面白い。
日本史の誕生http://d.hatena.ne.jp/matsuiism/20080814
>刺激的なのは、岡田氏が中国における「国家」や「皇帝」の起源を「商業文明」に見出していること。「帝国は皇帝の私的企業」であり、言ってみれば中国の皇帝制度とは「一種の総合商社」であるというのが氏の捉え方である。たとえば「夏(か)・殷(いん)・周(しゅう)などの古代王朝は、みな黄河の渡河点の洛陽・鄭州あたりを中心とした都市国家で、その都市国家は多く渡し場で開かれる定期市が原型だった」。
>中国の皇帝というものは、定期市の商人団の頭を原形とする古代の王が大きくなったものだから、それ自身が商人であり、金貸しである。政府の収入は租(そ)といって、農産物の現物を徴収するのだが、これは地方官庁(県)の役人や軍隊の維持費に当てられる。これに対して商品に課せられるのが税で、国境や交通の要衝、都市の城門などを通過する商人が払うのだが、これは皇帝の収入になる。
>中国は国民国家でも領土国家でもない。皇帝のいる首都は本社であり、地方の県城は、皇帝直轄の支店である。県城の戸籍に登録されている正社員が「民」すなわち中国人で、登録されていない社外の人が「夷狄」すなわち非中国人だ。県城には、皇帝から派遣された軍司令官が軍隊を率いて駐屯し、商業を監督し、治安を維持して、利潤を皇帝に送金するという形である。
>中国が「国民国家でも領土国家でもない」というのは、「郡県制度」が一定の面(連続的な領土や住民)を覆うものではなくて、いわば「点と線」から成るものだということである。「県」は「皇帝の直轄都市」の意味だが、これは「自然発生的な集落」ではない。「帝都から送りこまれた軍隊が貿易ルート上の要地で商品の集散地、つまり定期市の立つ所を占領して地ならしをし、東西、南北に井桁状に整然たる道路を作り、ブロックごとに木戸をつけ、全体を堅固な城壁で囲む」、これが「県」。「郡」は「群」「軍」と同じで、「軍管区」あるいは「常備軍」の意味。「民」とは城内の常設市場の組合員で、「民」となったものは、「組合長たる皇帝に対して一定の義務を負う」(「租」を納めたり、労働力を提供したり、兵役に服することなど)。
>「県城と県城の中間は蛮地で、夷狄のすみか」であり、「ただ県城の四角な城壁の内側だけが中国であり、そこに住んで首都の言葉を話している人たちが、たとえ出自は城外の蛮人たちと同じでも、中国人であり漢族なのである」と岡田氏はいう。つまり、「中国人と非中国人の区別は、人種の差ではなく、都市の戸籍に登録されているかどうかの違いである」と。
>あと、「都市の発生の機縁は商業であり、商業都市ができてはじめてその周囲に農村が発達するのである。その逆ではない」というのも重要な指摘で、柄谷行人氏や宮崎正勝氏も同様の指摘をしている。
「中国の皇帝というものは、定期市の商人団の頭を原形とする古代の王が大きくなったもの」この「市場=都市を核にして農村が発展していく」という発想は遊牧民族を歴史の原動力とする岡田説の醍醐味である。私権闘争の起源は、農村ではなく、まずは遊牧民の中で始まった。中国文明の起源も、イラン高原→モンゴル高原の遊牧民族の争いの玉突きの延長線にある。そして、彼ら遊牧民は、農地に進出しても、農民に転身することはなく、武力と通商(交渉)力を武器に、人々を支配し、さらには周辺国家を支配していったのだろう。今に続く、華僑の伝統は中国中華思想の本質であり、中国とは武力を背景に周辺国家からの冨の収奪によって膨張し続けた国家である。
http://www.jinruisi.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=121448
http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/01/000095.html#more http://blog.kodai-bunmei.net/blog/2007/01/000096.html
http://eco-evo.hp.infoseek.co.jp/2nd/42.html
さて、そのような中国の周辺国として始まった、日本とは、なんだろうか?
岡田氏では「倭国は華僑がつくった商業都市である」という。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~monadon/books259.htm
>古代中国人が通商のために日本列島に入植し、周囲に倭人が集まり都市となったものが「国」であった。特に越人の華南から山東省南部への進出は早く(紀元前5世紀)、ここに琅邪山の都を築いて韓半島を経由して日本列島に渡ってきた。植民地では土地の有力酋長が都市の監視官となることもあった。平たく言えば、古代日本の都市国家の建設者は華僑だった。いわゆる、魏志倭人伝の「倭人百余国」である。>やがて漢帝国の権力の弱体化があって周辺諸国への兵力派遣に支障が生じ、代わりに商人保護の役務と引換えに警察権と通商窓口の権限が土地の有力酋長へ与えられたのが「王」であった。その一つが漢委奴国王である。黄巾の乱とともに漢帝国の後ろ盾がなくなり、奴国王は失脚して内乱となった。その中から倭人諸国連合の長に収まったのが卑弥呼であった。卑弥呼は魏朝より親魏倭王の号を受け、新しい通商窓口として公認されたのである。親魏王は他にクシャン朝の王が受けており、魏は倭王を重要視したようである。
>その後、大陸は五胡十六国の混乱にあり倭国の記載は途絶えるが、369年に百済国皇太子貴須が七支刀を贈って、倭王禰(仁徳)に同盟を求めてきた。391年には、百済と共に高句麗と戦ったと広開土王碑に残っている。その後、『宋書』にも倭の五王が記されている。
>隋書東夷列には600年に倭王が使いを出している・・・この頃、隋使裴世清は東航して邪靡堆に至ったと書くが、竹斯国より東の諸国は倭国の同盟国であり、統一国家ではなかったと報告していた。660年に唐・新羅連合軍が百済を滅ぼした。663年に天智(この時皇太子)は、百済再興のために倭軍を韓半島に向かわせたが、白村江で全滅してしまう。そこで、倭国防衛策を打った。近江遷都、律令制定、天皇称号・日本国号の制定などである。668年に最初の日本天皇に即位し、ここに日本国が建国されたのである。
>その後、壬申の乱で統一事業は中断するが、乱を制した天武天皇が他面からの統一事業を継続した。日本書紀を編集することで、日本の国家アイデンティティの確立を目指し、紀元前!660年の神武よりの万世一系の王統の歴史が作られたのである。遅れて万葉集編集を通じて、日本語を創り出した。これらが日本史の誕生であった。
7世紀以降、中国からの離脱を進め「日本」が成立していく。その後、日本は、縄文的気質と外来の文化が融合し、まさに「日本」というしかない文化そして政治国家体制を作り出していった。しかし、その土台をなしたのは、庶民である縄文人・弥生人はもとより、支配階級も大陸からの流入民であった。しかも、日本へ渡来した支配階級は「大陸での私権闘争の負け組み」たちであり、彼らが日本で生き残るために選んだ仕事が「闘争の抜け道として商売」だったのだ。そう考えれば、その後、日本に市場が発達していった理由もよく理解できる。
投稿者 staff : 2009年06月25日 TweetList
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