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2009年06月05日

邪馬台国は朝鮮半島にあったのか?-4 邪馬台国は九州にあった

😀 くまなです。
邪馬台国はどこにあったのか
それは日本国家の源流に至る道筋とその支配層の塗り重ね構造を解明する糸口です。
その解明にあたっては、邪馬台国(邪馬壹国)について書かれた唯一の史書である魏志倭人伝の記述を原点として紐解きます。その記述に嘘は無いものとして、なるべく忠実に読みます。魏志倭人伝の著者陳寿が書いた原典は残っていないので後代の写本を元にします。
永遠の謎ともいえる邪馬台国の所在地について論証するのは無謀かもしれませんが、素直に読むとこうなるというものを一旦まとめておきたいと思います。
あとはみなさまからの突っ込みコメントで内容を深化させたいと思います。よろしくお願いします。
本編は長くなるので、まず論旨だけ書きます。
帯方郡から邪馬壹國までの全行程が12000里、途中の伊都國までが10500里。一里は75m(短里)とすると、伊都國は佐賀市あたり。残り1500里を南のほうに進むと熊本県の八代市あたり。そこを中心に阿蘇や高千穂も含む地域に邪馬壹國があった。(下図参照)
yamataikoku3.JPG
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●帯方郡から邪馬台国までの距離が明記されている。
自郡至女王國萬二千餘里。
(郡より女王国に至ること一万二千余里)
郡とは、邪馬台国までの行程記述の出発点である帯方郡(中国直轄地)を指します。
帯方郡から邪馬台国までは12,000里だというのです。また、邪馬台国へ向かう途中にある伊都国までの国名と各国間の距離が記述されています。
それによると帯方郡から狗邪韓國まで7,000里、そこから對馬國までは1,000里、次の一大國までは1,000里、さらに末盧國までは1,000里、そこから伊都國までは500里です。その里数を足すと10,500里になります。残りは1,500里です。
●それぞれの国はどこにあったのか
従郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里。
(郡より倭に至るには、海岸にそって水行し、韓国を過ぎて、乍(たちま)ち南し乍(たちま)ち東し、その北岸である狗邪韓国に到る。七千余里。)
出発地である帯方郡の位置は、定説では今のソウルか平壌(ピョンヤン)と見られていますが、結論は出ていません。
最初に到達する狗邪韓國は朝鮮半島南東部沿岸です。同じ三国志魏書東夷伝の弁辰の条の中に「狗邪國」の名がありこれが狗邪韓國だと言われています。現在の釜山あたりです。その後の行程と一致します。
始度一海千餘里、至對海國。
(始めて一海を度ること千余里、対馬国に至る。)
そこから南に初めて海を渡り對馬國に着きます。これは今の対馬です。狗邪韓國までも海を航行しますが、ここで「初めて」海を渡るという記述や次の行程との一致、またなんといっても對馬という名称が一致しています。弥生時代の遺跡も数多く有ります。
又南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國
(又南に一海を渡ること千余里、名付けて瀚海(かんかい)という。一大国に至る。)
さらに南に海を渡り一大国に着きます。これもほぼその位置に壱岐が存在します。また一大と壱岐という名称の類似性も見られる。なお、後代の史書では一支国と修正されています。
又渡一海千餘里、至末盧國。
(又一海を渡ること千余里、末盧国に至る。)
壱岐から千里で末盧国に着きます。方角の表記はありません。それはそれ以前の行程の「南」の踏襲か、目前に見える最短の陸地への航路なので省略したと思われます。南に進むと長崎県北部の松浦半島や佐賀県の伊万里、唐津あたりになります。このあたりはちょうどヤマト王権時代の「末羅」といわれた国の領域と重なります。当時末盧や末羅をどう発音したかは不明ですが、類似した文字があてられているのを見るとこのあたりがかつて末盧と呼ばれていたことがうかがえます。
東南陸行五百里、到伊都國。
(東南へ陸行五百里、伊都國に至る。)
ここから陸路となり、東南方向に進むと伊都という国があります。
●一里はどのくらいの距離なのか
里は距離の単位ですが、これは時代や国により異なっています。
では、魏志倭人伝の書かれた時代、魏(中国)では一里はどのくらいの距離だったのでしょうか。

古代史探求者である生野真好氏が、三国志において里数の記載がある300個の事例すべてについて再検証され、長里と短里の区別が可能な50の例についてその判別を行われました。その結果、三国志の中で、長里と短里が混じって使われていることを見出されました。生野氏の更なる検証の結果、無原則に混用されているわけではなく、漢王朝の正当な後継を自認する(漢の制度を踏襲した)蜀のことを記した「蜀志」では一貫して長里が使われており、周の古制(古い制度)に復する(戻る)とした「魏志」では、漢の時代にかかわる部分では長里が、魏朝成立後は短里が使われていると判断できるようです。

科学の目で見えてきた日本の古代より
短里説で有名なのは古田武彦氏です。

「『邪馬台国』はなかった」の中で、当時と現在で、それほど大きな位置のずれはないと思われる二地点を抜き出し、そこに書かれている距離から1里の長さが概略どの程度であるのかの確認作業が行われました。いくつかの例を検証した結果、1里は75~90メートルという結果が得られ、それとは別に古代の天文書の計算から得られた結果と合わせて、1里は80メートル弱(76~77メートル)程度であると見て間違いないと判断されました。

科学の目で見えてきた日本の古代より
魏書の記述で具体的に検証してみます。
①狗邪韓国から末盧までの各国間の距離は千里です。各々ばらばらの距離で時間距離的な概数であると考えられますが、おおよそ航行距離と一致すると考えてみます。それぞれの実距離は約50~80kmとなっており、一里は50~80mとなります。
②魏書の中に、方○○里という面積を表す表記があります。一辺の長さによって面積を表していると考えられます。壱岐は方三百里と表記されています。実際は東西14km、南北17kmなので約17km四方とすると、一里は約57mとなります。対馬は方四百里となっています。島が細長くどこまでを捉えていたのかが不明ですが、同時代の遺跡が集中している中心部を想定するとおよそ30~40km四方なので、一里は75~100mとなります。
韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里。
また、韓国については方四千里としています。これを現在の朝鮮半島とします。東西方向は海に隔てれ範囲が明確なので東西方向でみると約300kmですから、一里は75mとなります。この75m/里を用いて狗邪韓国から朝鮮半島の西岸を北上すると七千里はほぼソウルあたりになります。
古代中国での一里は通常400~500mほどですが、魏志倭人伝における一里は50~100mの範囲です。もし一里が400~500mだと、狗邪韓国~末盧の行程も、韓国の大きさも5倍となり、邪馬台国は赤道直下になってしまいます。
●伊都国はどのあたりにあったのか
一里を75mとして、末盧国から邪馬台国までの行程をたどるとどうなるでしょうか。
まず、末盧国(佐賀県北部)から東南に500里は35kmとなり、概ね佐賀市周辺部です。有名な吉野ヶ里遺跡も射程内です。伊都国は邪馬台国を訪れる中国の使者が滞在した場所であり、周辺諸国の監視をする場所でもありました。吉野ヶ里は中国との交易を行っていたようですし、監視や防衛機能の状況からして、伊都国にふさわしいのではないでしょうか。
なお、福岡県の糸島半島・かつての怡土郡、前原市あたりに想定する説があります。その場合、方角が北東となり魏志倭人伝の表記を捻じ曲げてしまいます。また、福岡県北部沿岸が伊都国なら壱岐から直接船で向かった方が早くて便利なはずです。わざわざ末盧を経由して日数のかかる陸路をとる理由が不明です。
●邪馬台国はどこにあったのか
全行程を12000里とすると伊都国から残り1500里(120km)のところに邪馬台国があることになります。
しかし、方角の表記がありません。手がかりは…
南至邪馬壱國女王之所都水行十日陸行一月
この水行十日陸行一月はいくつか解釈があります。
①伊都国や不彌国からの行程だとする説
この場合、残り1300~1500里(約100km)という距離からしてどうも合いません。「水行十日あるいは陸行一月」と読んでも同様です。
②帯方郡からの時間距離だとする説
その場合、水行部分10000里なので1日で1000里(75km)、陸行部分は2000里なので1日67里(5km)となります。陸行はずいぶんのんびりしていますが有り得なくはありません。
帯方郡から南の方向ということだと、伊都国・奴国・不彌国から概ね南の方向ということで、筑後平野のあたりから九州の西岸を南下するイメージです。
道なりに1300~1500里いくと熊本県八代市あたりです。距離・方角的には内陸の阿蘇や高千穂も入っていた可能性があります。邪馬台国は七万余戸を擁していた大規模集落ですので、充分ありえます。
●つまり、邪馬台国は九州、それも肥後の国にあった。
魏志倭人伝に基づくと、朝鮮半島でもなく、近畿でもない、九州にあった、というのが結論です。

投稿者 kumana : 2009年06月05日 List  

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コメント

千葉県(と、茨城県とが接している所)に、「関宿城」という、復元されて、博物館になっている所を見学に行ったことがあります。
利根川と江戸川の分岐点にあたり利根川水運の要衝であることから、江戸幕府にとっては重要拠点となっていた関宿は、譜代大名が藩主として赴任してくる地でした。
今は、ただ大きな二つの川が流れているだけですが、嘗ては、沢山の高瀬舟がここに集まり、船宿なども川沿いに並んで、非常に栄えた所だったのです。
明治維新に、廃藩に伴って東京に居を移すことになった藩主の久世の殿様は、その船着き場から蒸気船に乗って行ったそうで、その模様を描いた絵が、その博物館に掲げられていて、あまりに壮大な光景なので、茫然として見た憶えがあります。
水運は今は廃れてしまいました。その江戸川にほぼ平行して流山街道という道が通っていますが、その陸運に取って代わってしまったのです。

投稿者 五節句 : 2009年7月21日 22:27

陸運と水運という視点は、市場発展の歴史を見る上で、非常に重要だと思っています。
ローマ帝国、平安朝、共に軍事目的から、それまでの水運を規制し、陸上に直線の”道”を整備しました。しかし、ローマでも平安朝でも、商業発達が進むにつれ陸運が廃れ、再び水運が脚光を浴びるようになります。
水運→陸運→水運には何か必然的な構造があるのか、さらに追求して行きたいと思います。

投稿者 ないとう@なんで屋 : 2009年7月22日 21:49

西欧発近代市場と江戸時代・日本の市場の違い

十字軍遠征以降、西欧で急拡大した「市場」と、江戸時代に日本で急拡大した「市場」。文化文芸の発展、消費階級の拡大など共通点は多いものの、根本的に違うもののよ…

投稿者 日本を守るのに右も左もない : 2010年1月8日 15:09

いままでの参勤交代は、幕府が大名の力を弱めるためという視点でしか見ていなかったけれど、今回勉強会やこの投稿を読んで国内の経済の発展への影響を知る事が出来ました。
幕府が大名から直接、税を取って藩の力を弱めるという方法を取らなかった事で地方経済の活性化に繋がったんだと思います。

投稿者 じゅん : 2010年7月29日 22:10

同見解です。

投稿者 ホケ老 : 2015年1月25日 08:52

同見解です。伊都国に六角川流域、投馬国を宮崎平野、狗奴国は鹿児島県~球磨川流域を比定し他は思索中です。

投稿者 ホケ老 : 2015年1月25日 08:59

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