邪馬台国は朝鮮半島にあったのか-3 卑弥呼は公孫氏の係累ではない |
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2009年04月09日
大和誕生と水銀 ①大和の歴史
こんばんは。tanoです。
「大和誕生と水銀」という桜井市でペンションを経営する地元(大和人)の歴史家が著した書籍があります。
この書籍は100%大和人と称する田中八郎氏が足と見聞で得た貴重な情報に自らの内に流れる縄文的感覚を元に組み立てられており、縄文人や土着の弥生人の立場から歴史を見極めた稀有な歴史書になっています。
これから381頁に及ぶこの書籍の中から①大和の歴史、②宇陀の水銀と歴史、③古墳築造の意味、の3回に渡って要約、紹介をしていきたいと思います。
もちろん気に入った方はぜひ書籍を購入して原文を読んでみてください。著者の訛り入りの味のある文章が味わえ、読み物としてもかなり面白い本です。
「ヤマトがなぜ奈良にあるのか?」興味深いこの問いから始めてみます。
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「やまとがなぜ奈良にあるのか?」
奈良のやまとの歴史は三輪山麓から始まっている。
わが国の歴史の開幕の地が奈良であるのは不思議な事だ。弥生文化は海を渡って来ているから、海辺の地域が受け皿として順当なわけで、海の無い大和が弥生文化を開化したのは相当な理由があったといわざるをえない。その大和の中でも山並みを乗り越えてピンポイントに三輪山麓を選んだのはそれだけの理由や条件が並ではなく強烈にあったのだ。大和誕生の真の理由を、その現場はどこかと探索してみた。
なるほど・・・。確かに日本列島の内陸部の奈良に最初の渡来人文化が繁栄したのは確かに違和感がありますね。
やまとは隅々まで一挙に王権勢力が征服したわけではない。
王権派が征服した大和盆地と王化に抵抗した宇陀・都祁(つげ)地域では摩擦が生じた痕跡を残している。
その2つの地域には長谷とよぶ谷があり、その谷がつなぎと緩衝の地帯になっていた。
はせ谷とは近鉄桜井から長谷寺までの長さ8キロの地域で巾は3~500mに及ぶ。
この谷の北側にオオクニヌシを祭神とする大神神社があり、東端に長谷寺がある。
谷間の入り口が3つの川の合流点でありそこがツバ市になる。ここが大阪湾からの水路の終着点で、大和地方への物流機能を独占していた。古墳時代から飛鳥、藤原京までの社会の玄関口となった。三輪山、まき向など古代の中心は全て大和川の終着点に位置している。
やはり大和川に注目です。 8)
大和の地がこの地に栄えたのはなぜだろうか?
谷間の突き当りが長谷寺でその先に宇陀地域がある。こうした役割りを担うことになったのは宇陀地域の水銀産出が王権の財政と権威の為に不可欠であり、大和川を遡る経路に自然要塞としての防御性とそれを超えてでも到達する利点があったからであろう。
著書にはもっと詳しく書いてあるのですが、要するに大和川自体が持つ防衛力(外部からの容易な進入を防ぐ)というところにポイントがあるようです。 8)
水銀と防衛砦、これが大和を渡来人が目した理由である。
防衛砦から見ていこう。
三輪山から18キロ大阪湾に遡った地域に竜田山がある。竜田山は大和と大阪を分ける西青垣山とよばれる生駒金剛山脈の中程で切断する断層崖の北側の山である。
この竜田山は断崖絶壁で弥生時代から古墳時代に再三地すべりを引き起こした。
竜田山の地すべりは別名亀が瀬地すべりとよばれ、大和川が金剛山脈を切り裂いていく真中にある。由緒は数千年以上前に噴火を繰り返して積み上げた火山岩層のうえに、数百年前の噴火の溶岩が乗っかって2段重ねの地層がすべる事だ。この地は古墳時代の後も再三に渡って地すべりを引き起こし、大和川の河川の大阪側に甚大な災害を引き起こしてきた。1962年に開始された世界一の規模をほこる100mの長大深礎工の国家工事は今日まで施工を続けており、将来に渡っても継続する壮大な工事である。
確かにいまだに大和川水系では工事をしてますよね。あれは40年以上続いているのですか。
計算上ではあるが90年に1回の竜田山の地すべりと亀の瀬渓谷の川床隆起ダムの出現は、大和盆地の水没と河内平野の壊滅をその度に引き起こしたが、図らずとも副産効果があった。それは水没地域が水禍を重ねる毎に農業適地に質を高めた事である。
冠水と排水、その繰り返しが地面に見事な平滑面を作り、土の栄養化となって農適地となったわけである。
古墳創成期から王権成立期に農業がまき向地域を中心として、続いて大和川流域に急成長したのは渡来の新文化・技術力だけではなくて、平面地形と土質の貢献が助けた。この農業力の成長があって、王権基盤の形成を助成したとみられる。
なるほど。 😮
「ヤマトに出来た最初の集落」
最初にヤマトに出来た集落は鍵、唐古である。竜田山から三輪山に向かって2/3ほど行った12キロ地点にある。総面積30万平方、直径600mの円形の集落は5重、6重の環濠に守られている。弥生前期(紀元前3世紀)から古墳前期(4世紀)まで栄えた日本列島最大規模の弥生村だが、まき向が登場すると同時に消滅した。
大和盆地の地力ではこれだけの規模の維持は無理で、大和以外の広範囲の力を合わせていた。唐古、鍵の村では外の地域からやってきて入手したくなる魅力があった。
水稲栽培の技術の他、銅鐸の受注製作、土器、立体人形など周囲の地域との交易を中心に栄えていた。
鍵、唐古遺跡は葛城王朝の古墳らしいけど・・・
「まき向に登場した新製品」
唐古、鍵遺跡の放棄廃村の原因は災害による水没だけではない。まき向の地は水没しないだけでなく、新製品が勃興したのが決定的な原因だった。
それが巨大な富を生んだ真土・辰砂(水銀)の登場である。まき向の新興勢力は大陸の相手と交易して利益の質も量も格段に増大した。列島内部と交易していた従来形のもの(銅鐸など)とは大きく異なった。宇陀の水銀は交易相手を見つけることでこの時代に価値が高騰し本格的な採掘が始まったのである。
三輪山に小手をかざす大陸人の目には実は三輪山はどうでもよく、その山の麓である水銀を生み出すまき向の村を透視していた。
まき向くとは交易の地、水銀で栄えた地だったんですね。初めて知りました。
著書の中にあった挿図です。確認してみてください。
<図はここをクリック >
次稿では、まき向の地に水銀をもたらした宇陀の水銀について紹介していきたいと思います。
※この記事に関係する投稿など
辰砂(ウィキペディア)
三輪山、葛城山が聖域とされるのは何故か?(るいネット:山澤氏)
渡来人は倭国に何を求めてやってきたのか?
投稿者 tano : 2009年04月09日 TweetList
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コメント
投稿者 tanoyan : 2009年5月12日 01:23
×正当性
○正統性
投稿者 匿名 : 2009年5月12日 09:48
私もこの番組見ました。
驚くのは冒頭の人間の体で例えた国家の体制。
軍隊が手で、人民は足になっています。
番組の最後に東大の教授が語っていた言葉が意味深です。
「これまで天皇は時々の権力に利用されてきたことは事実である。今後もうそのような事は繰り返されないと思うが、そうなった時の天皇制とはいかにあるべきか、危険だけど考えないわけにはいかない課題が私たちにはある。」