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2009年05月26日
●修験道とは、どのような宗教なのか?
<HP 大峯修験道 より引用リンク>
最近の記事にもありました、古代日本の成立に大きな関わりを持っていたと考えられる修験道ですが、そもそも修験道とは、どのような宗教だったのでしょう
関祐二さんの著書 『修験道がつくった日本の闇』から、一部紹介します。
その前にいつものヤツをお願いします。
~以下引用~
修験道は初め、山に起こった。
太古、人々は山を聖なる場所と崇めたが、決して足を踏み入れることはなかった。聖なる場所は一方で、人智の及ばぬ恐ろしい場所であり、また、生活の場・平地に対する彼岸、死の国でもあったからだ。
修験道は死ぬと山に埋められることを望む。それを「帰峰(きほう)」と呼ぶが、山は彼らの最期に帰る場所、黄泉の国だったのである。
浄土・賽の河原・地獄といった、死にまつわる地名が日本の山のあちこちで見受けられるのは、このような歴史的背景があってのことだ。
東北に端山信仰というものがあって、やはり人は死ぬと山に帰っていくと信じられている。東北のみならず、修験道のメッカ・大和の葛城山にも端山信仰を認められる。古くは葬儀かかわる言葉に「ヤマ」が用いられたのもそのためだ。修験道は日本人の山岳信仰と密接にかかわっていたといえる。
ところで、修験道が重視した土地は山だけではない。たとえば、葛城山は大和の南側に連なり、日本で最も降雨量の多い地域の一つである。雨が多ければ、おのずと木々は成長する。ここを聖地に選んだ理由には豊かな森を求めたことも含められよう。
神は山に降りるのではなく、山にある依代―巨大な岩石の磐座、もしくは巨木―に降りるとされていた。修験道は、それらの巨木に降りる精霊を捕まえては験力の獲得に励んだのである。森を失えば文明が滅びることは人類の長い歴史が実証しているが、修験道にとって「山」や「森」が欠くことのできぬものという考えは、現代に伝わる警鐘でもある。
それでは、なぜ修験道はこれほどまでに山にかかわりを持つのであろうか。
豊かな森をはぐくむ山は、昼なお暗く、里人にとって、どこか「異なる世界」に映ったはずである。だからこそ、そこは死霊の住む場所と考えられたのであろう。くり返すが、修験道が発達する以前、里人が積極的に山に入ることはなかった。
修験道が山に始まり、山から広がっていったという事実は重要だ。何しろ、わが国は今でも国土の七割近くを森や林が占めている。修験道がその勢力を蓄える場所は無限にあったと容易に想像がつくのである。
興味深いのは、最期の文章の修験道が山から広がっていったという点だ。
確かに、日本は森が多いし山脈も連なっている。
また、現代の私たちでも山に対して特別な感情(感謝の気持ちや畏怖の念)を抱いている。
山は敵から身を隠す場所に適し、山脈を利用すれば情報伝達のインフラにもなる。さらに里人の山岳信仰を上手く利用して山から里への情報発信基地にも適している。
古代日本にとって、山は共認支配していくためのこれ以上無い『場』だということは確かなようだ。
投稿者 marlboro : 2009年05月26日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2009年7月11日 21:56
tano さん、ご丁寧なコメント恐縮です。
・ ・ ・ 尾張氏が古墳時代が始まって一世紀も経つと、東国に進出しているという、それは、大和朝廷の成員としての任を背負って、という意味になるのでしょうか、それとも、尾張氏単独の勢力拡大を図っての動き、ということでしょうか。
さきたま古墳群の築造はほぼ五世紀から始まった、と現在までの調査により判定がされているようですから、そうすると、その古墳群を造った集団は、既に、尾張氏による指導や統制を受けていたことになります。
ー ー ー う~ん、正直、東国への尾張氏の進出というのは、私には寝耳に水の説でした。
朝鮮半島からの移住者の移植、というお話にもなっているようですが、引き続きその考察への注目をさせて頂くつもりです。
投稿者 五節句 : 2009年7月13日 22:03
こんにちは。古墳情報を少しばかり。
5世紀-さきたま古墳群-前方後円墳
http://www.sakitama-muse.spec.ed.jp/historic-site/tomb-site.html
4世紀中頃~後半-塩古墳群-方墳・前方後方墳
http://kofunnomori.web.fc2.com/saitama/kounan/sio.htm
3世紀末~4世紀初頭-権現山古墳群-前方後方墳
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%A9%E7%8F%BE%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E7%BE%A4_(%E3%81%B5%E3%81%98%E3%81%BF%E9%87%8E%E5%B8%82)
埼玉は武蔵国、武蔵国一ノ宮は氷川神社、武蔵国には氷川神社がいっぱい、氷川神社の祭神はスサノオ、スサノオは出雲。
前方後方墳を伝えたのは出雲とも考えられますね。
東国、面白いです!
投稿者 匿名 : 2009年7月16日 21:46
五節句さん
毛人の国の考察、面白く読ませてもらっています。
三世紀の日本の状況は五節句さんが言うように独立した地方が群雄割拠の状態にあったのだと思います。それも戦乱状態ではなく微妙な緊張状態で領域を定めて共存していたのだと思います。古墳の造営もその延長にあったのだと考えています。
尾張が東国に入ったのが4世紀後半、古墳時代が始まって1世紀が経過しています。本当に濃尾平野の前方後方墳が東へ広がっていったのか、そこは古墳年代の設定も含めて改めて調査して以降と思っています。
その上で東国の統合状態が大和朝廷の時代にどうであったのか、仮説を組み立てていきたいと思います。
突っ込みコメントありがとうございました。