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●修験道とは、どのような宗教なのか?

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<HP 大峯修験道 より引用リンク [1]
最近の記事にもありました、古代日本の成立に大きな関わりを持っていたと考えられる修験道ですが、そもそも修験道とは、どのような宗教だったのでしょう
関祐二さんの著書 『修験道がつくった日本の闇』から、一部紹介します。
その前にいつものヤツをお願いします。
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~以下引用~

修験道は初め、山に起こった。
太古、人々は山を聖なる場所と崇めたが、決して足を踏み入れることはなかった。聖なる場所は一方で、人智の及ばぬ恐ろしい場所であり、また、生活の場・平地に対する彼岸、死の国でもあったからだ。
修験道は死ぬと山に埋められることを望む。それを「帰峰(きほう)」と呼ぶが、山は彼らの最期に帰る場所、黄泉の国だったのである。
浄土・賽の河原・地獄といった、死にまつわる地名が日本の山のあちこちで見受けられるのは、このような歴史的背景があってのことだ。
東北に端山信仰というものがあって、やはり人は死ぬと山に帰っていくと信じられている。東北のみならず、修験道のメッカ・大和の葛城山にも端山信仰を認められる。古くは葬儀かかわる言葉に「ヤマ」が用いられたのもそのためだ。修験道は日本人の山岳信仰と密接にかかわっていたといえる。
ところで、修験道が重視した土地は山だけではない。たとえば、葛城山は大和の南側に連なり、日本で最も降雨量の多い地域の一つである。雨が多ければ、おのずと木々は成長する。ここを聖地に選んだ理由には豊かな森を求めたことも含められよう。
神は山に降りるのではなく、山にある依代―巨大な岩石の磐座、もしくは巨木―に降りるとされていた。修験道は、それらの巨木に降りる精霊を捕まえては験力の獲得に励んだのである。森を失えば文明が滅びることは人類の長い歴史が実証しているが、修験道にとって「山」や「森」が欠くことのできぬものという考えは、現代に伝わる警鐘でもある。
それでは、なぜ修験道はこれほどまでに山にかかわりを持つのであろうか。
豊かな森をはぐくむ山は、昼なお暗く、里人にとって、どこか「異なる世界」に映ったはずである。だからこそ、そこは死霊の住む場所と考えられたのであろう。くり返すが、修験道が発達する以前、里人が積極的に山に入ることはなかった。
修験道が山に始まり、山から広がっていったという事実は重要だ。何しろ、わが国は今でも国土の七割近くを森や林が占めている。修験道がその勢力を蓄える場所は無限にあったと容易に想像がつくのである。

興味深いのは、最期の文章の修験道が山から広がっていったという点だ。
確かに、日本は森が多いし山脈も連なっている。
また、現代の私たちでも山に対して特別な感情(感謝の気持ちや畏怖の念)を抱いている。
山は敵から身を隠す場所に適し、山脈を利用すれば情報伝達のインフラにもなる。さらに里人の山岳信仰を上手く利用して山から里への情報発信基地にも適している。
古代日本にとって、山は共認支配していくためのこれ以上無い『場』だということは確かなようだ。

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