初期キリスト教における教会の存在 |
メイン
2009年05月02日
東国研究~古地理学からのアプローチ
「今ある地勢は過去未来永劫不変である、と思い込んでいたら、とんだ史観になってしまいます」 といううららさんの視点を引き継いで、古地理研究を続けてみたいと思います。
今日、検討してみるのは「東国」関東地方です。まずは以下の「日奉創発の会HP」の記述をお読み下さい。
>3000万年前に伊豆半島が北上し衝突することによって、箱根山・富士山等の山系が形成されていて今の東海道は人々の移動が困難であったために、古代には関西の文明圏からの文物の移動は東山道を経由していた。その結果、関東平野北部の群馬・栃木側に崇神天皇族といわれる論理性が現れた。中国大陸と同様に関東平野にも南北の文化の違いが現れて、それらの鬩ぎ合いの中で平安時代中期に「もののふの道」という精神性の高い思想が生まれ、この思想が鎌倉幕府・江戸幕府そしてついには世界都市東京を誘引した。
日本文明は、北方騎馬民族が持ち込んだ論理性と土着の縄文・弥生人の「やまとごころ」の合成物ですが、騎馬民族の一方的な支配を受けないで守り継がれた東国の土着性が、武士道の基盤をなしたとする見方です。そしてこの構図は、ヒマラヤ山脈の存在によって、古モンゴロイド性が残存した、中国南方の文化形成と近似すると、「日奉創発の会HP」は述べています。
この地理的分析を示したスケッチが以下です。
よく、「根の山は天下の険」といいますが、実際、箱根路を通る東海道が開発されたのは鎌倉時代になってからのようです。
http://www.city.mishima.shizuoka.jp/kakukaHP_system_kanrika/amenity/rekishi/tokaido/toukaido.htm
また常陸国風土記には以下のような「富士山の神と筑波山の神の逸話」が記されているそうです。
>親神が富士山の神のもとを訪れ、宿を乞うたが、富士山の神は物忌み中だと言う理由で宿泊を拒否した。親神は次に筑波山の神のもとへいき、同様に宿を乞うたところ、今度は親神は歓迎された。そのため、筑波山には人々が集まるようになり、反対に富士山には絶えず雪が積もり人々が来なくなったという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1
このように、東海道が塞がれていて、房総の地は縄文・弥生文化が生き残ったというのは、納得できるものがあります。
しかし、なんで、騎馬民族は北関東に拠点を構えたのでしょうか?なんかこんな奥地にどうして?という疑問がわいてきます。つまり「何故、古代史の舞台は奈良盆地なのか?」という問いと同じ謎です。そうすると、この疑問も古地理的な理解が鍵を握っていそうです。・・・・と調べてみると、やはりそうでした。
「東京湾は縄文時代、もっと山奥まで入り込んでいて、奥東京湾を形成していた。そして縄文後期以降の海退によって、北関東の主に野毛川一体が優良な開拓地となり、ここに北関東古墳群が形成されていった」のです。
以下、http://bosper.at.infoseek.co.jp/PEGE5.htm より
▲古東京湾時代(120000年前)房総半島は島だった。この時代の湾口は東の鹿島灘に開け、南房総半島は島だったが古富士山、箱根、赤城山、榛名山などの火山の噴火により多摩丘陵などに火山灰を20mも積もらせ、多摩ローム層を形成する。
▲古東京川時代(20000年前)海は後退した。氷河期による海岸線の後退や火山活動により海面は現在より80mも低くなって東京湾は盆地に。台地から流れだした川は本流の古利根川と合流して、大平洋に流れた。これが”古東京川”。富津沖の中ノ瀬は当時の川中島で、観音崎から急に海が深くなっているのは古東京川が深くえぐった跡。
▲奥東京湾時代(6000年前)群馬、栃木は海。縄文時代になると氷河期も終わって、海水面は現在よりも13mも高くなり、関東平野に二つの湾ができた。海から離れた山間部から貝塚が発見されるのはこのせい。
どうですか、房総半島は、孤島だったんですね。残念ながら、この後の地図がネットを調べてもみつからないのですが、古墳時代の古地理については、以下サイトが参考になります。
http://homepage3.nifty.com/kofun/kenaga/index.html
>約6000年前の縄文海進時、東京湾は栃木県の平野部まで達していた事が分かっております。毛長川流域も大宮台地に連なる鳩ヶ谷支台南縁の間際迄海でしたので、鳩ヶ谷市及び川口市の一部を除いてまだ海底に没していた事になります。その後、気候の寒冷化により、次第に海岸線は南下して行きましたが、弥生時代初期にはまだ東京都及び埼玉県南部の低地は遠浅の海の底でした。従って、縄文~弥生中期の遺跡は鳩ヶ谷支台上に見られるのみで、低地部に人の生活の痕跡が認められるようになるのは、弥生中期以降になります。
>(北関東を流れていた)旧入間川は両岸に自然堤防を発達させ、これら低地部に沖積平野を形成して行き、古墳時代になると足立区北部迄はほぼ陸地化したと考えられております。草加市西地総田、東地総田、足立区舎人、伊興、花畑等の遺跡は弥生時代終末期~古墳時代初期にかけてほぼ時を同じくして出現しており、古墳時代に入って、低地部の陸地化に伴い、人々がこの自然堤防上に生活圏を拡大していった様子を伺い知る事ができます。
このように古墳が形成された北関東一体は、当時奈良盆地同様、陸地形成のフロンティアだったわけですね。そして、古墳時代の平地拡大によって房総半島と地続きになることで、房総の地が遅れてヤマト朝廷との接点を持つようになっていった訳です。
このように古地理を勉強することで、古墳は縄文中期以降の海退に伴って発生した湿地帯の開拓に伴って形成された遺構であることがより鮮明になってきます。そして、武士発祥の地は、その周辺部であるということもいえそうです。
東国研究、まだまだ入り口に立ったところですが、会員の皆さんの力で、ひとつづつ前進させていきたいと思います。
投稿者 staff : 2009年05月02日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.joumon.jp.net/blog/2009/05/805.html/trackback
コメント
投稿者 ryo : 2009年6月11日 19:18
そうだったんですね。
でも、日本の民主主義も最初は同じようなものですね。
民主主義って言うのは力をつけた一部の市民の権利要求運動の結果生まれたわけですね。
投稿者 ヒロシ : 2009年6月11日 19:28
ryoさん、コメントありがとうございます。
実は、エジプト人はあの世でも、「この世と同じように仕事をする」という死生観を持っています。つまり、奴隷のみに働かせていると言うわけでないようです。その意味で、ギリシャとエジプトの奴隷制度は少し違うのでは、と思っています。
投稿者 カッピカピ : 2009年6月11日 22:48
ヒロシさん、コメントありがとうございます。
一部の人間しか民会に参加できず、かつ仕事という現実の圧力に晒されていない人達の政治という点では、現在の日本の政治とほとんど一緒かもしれませんね。
投稿者 カッピカピ : 2009年6月11日 23:25
ギリシアの奴隷制度もエジプトの奴隷制度(今日のサラリーマンと変わらない存在だったといわれていますが)と同じであったのでしょうか?映画では、すさまじい制度のように見えますが、どうだったのでしょうか?