日本支配層の系譜1 ―朝鮮半島の倭の地から― |
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2009年02月02日
韓半島から来た倭国~韓国人が書いた日本史観
みなさんこんばんわ!tanoです。
最近、このブログでは邪馬台国の解明や倭人の解明に記事が続いています。
今日はその流れの中で韓国人の学者が書いた日本史観を紹介したいと思います。
李鐘恒氏という韓国の歴史家の書です。
氏は中国や韓国での史書を根拠にしており、大和朝廷ができる数世紀前に北九州に王朝があったという立場で朝鮮半島と日本の関係を見ています。日本の史書が大和中心に展開されていることに対して事実ではないという立場から北九州王朝と大和の関係を見ています。非常に興味深い史観で、混迷している記紀分析に解決の糸口を与えています。
氏自身はほとんど解明していますが・・・ 8) 。
では、あらすじを紹介したいと思います。
大和朝廷は当初は北九州王朝から分派した支流のひとつであり、それがしだいに勢力を増大し七世紀、八世紀に九州王朝を併合して列島を統一した。大陸や半島の記録から追いかけるとそのようにしか見て取れない。
北九州王朝を立ち上げたのは古代伽耶族であり、その時代は新羅や百済が建国する前に遡る。新羅建国後は伽耶と新羅の境界域での戦乱が続き、北九州を後方部隊として組織した伽耶は新羅を度々苦しめる。伽耶連合は6カ国からなりその力は新羅から恐れられ、半島の中でも脅威であった。高句麗が新羅と連合して伽耶を攻めるのに要した軍人は5万人である。伽耶連合は百済、新羅の間にあって国としての体を成していない弱小連合ではなかった。しかし突然のように伽耶が百済に譲渡され、さらにその数十年後に新羅に併合される。突然の滅亡であった。
伽耶が新羅に併合されたのは六世紀半。そのきっかけを作ったのは北九州の王朝豪族である磐井の壊滅だった。九州王朝の分派として畿内で力を付けてきていた大和王朝は磐井に攻め込み、当時の九州王朝である磐井を壊滅させる。伽耶の後方部隊であり、伽耶の待避場所であった日本の初代王国の宗家はこの時期にその力を失う。北九州は伽耶の新羅併合と同時にヤマトに併合されてしまう。
古代伽耶が北九州で日本初代王朝を立ち上げたと考えれば畿内での動向や記紀になぜ事実が書かれなかったのかが読み取れる。詳しくは次稿に述べるが、概略だけ述べておきたい。
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近畿の天孫族は北九州から分派した伽耶族の一派であり、九州での古代王朝の系譜は自分達の系譜でもあるとしても間違いではない。しかし、所詮宗家からはみ出した分派である。
宗家を打ち破って表舞台に出たとき、過去の宗家の歴史を自分達の歴史であると作り変える事が必要になった。古事記を作る理由として正しい歴史を作るとして旧事を全国から集め、それを安麻呂に諳んじさせた後、焼却したというのは過去の宗家の歴史を消去する為であった。
古事記とは北九州王朝の史実を畿内王朝に塗り替えた偽書であった。日本書紀はその後百済系の勢力によりさらに書き換えられた偽書であった。しかし古事記も書紀も北九州にあった宗家王朝の存在は共に否定すべき存在であり、その点に関しては古事記に塗り重ねられた偽書が書紀であったといえるのかもしれない。
今日はこの本の巻末に書かれてい下記の記述を紹介しておきたい。
ちょっと長いですが、著者の史観がわかります。頑張って読んでみてください。
古代日本の国家の起源
新石器時代以来、日本に流入した人々の流れはすべて韓半島を経て渡って来た人たちだった。彼らは九州の北部にまず基盤を掴み、暮らしを立てていたものと考えられる。
韓半島から渡来した人たちによって、日本の弥生時代の文化ははじまり、稲作農業は起こった。農業社会の形成とともに権力社会が出現するようになった。日本に最初に渡って来た東北アジア系の移民の中に、自生的に権力構造を備えた部族集団が全く現れなかったとはいえないようである。
しかし、近畿天皇家の元祖は西暦1世紀~2世紀のころ、韓半島の伽耶地方に定住するようになった伽耶人の一派が北部九州に渡って、そこで建国した国家である。この古代国家こそ、中国の史書に見える倭国または倭奴国であり、魏の時代の邪馬壱国である。
南北朝時代には讃、珍、済、興、武の名で「宋書」「南斉書」「梁書」に記録された九州王朝の歴代の王である。そして九州王朝は「隋書」東夷伝に立伝された俀国そのものであり、「旧唐書」の日本伝(近畿天皇家の大和政権)と平行して立伝された倭国伝の主人公である。歴代中国の史書は、その王朝が存立した期間に周辺にいた異民族の状態について立伝するのが原則であり、「旧唐書」が日本伝と倭国伝を同一の位置と重さで立伝したのも、唐の初期(建国は618年)に倭国が厳然と実在していた国家だったからに間違いはない。
近畿天皇家は、本来九州王朝の支配層に属する一族だったと考えられる。彼らは西暦前後の時期に九州王朝から分派して大和に入り、その地方の土着豪族との闘争をつうじて次第に生存の基盤を築いていったと考えられる。これが記録に「神武の東征」という形でみられる九州王朝分派勢力の東進の残骸である。その後また2次に崇神の時、3次に応神の時に九州王朝の勢力は大和に進出し、ついにその地方での最強の政権を樹立するのに成功した。
これが大和政権の天皇家である。
だから天皇家の出自は伽耶から始まったと考えるできである。三国統一の過程でも多くの人たちが日本に流入した。その中でとくに亡国の恨みを抱いた百済の遺民が多い。百済の上層部の人々は大和政権に流入して、一時期、奈良に百済文化の花が咲きそろうような時もあった。しかし天皇家の根本が伽耶族の支配層と同種だった事実は、日本の建国神話が如実に物語っているようにこれは疑う余地もないことなのであった。
投稿者 tano : 2009年02月02日 TweetList
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コメント
投稿者 naoto : 2009年3月10日 21:20
真実の韓(『氷解する古代』より)
皆さん、そもそも韓国の「韓」にどのような意味があるのか、ご承知でしょうか。
「韓」を漢和辞典で見ると、「朝鮮南部の呼び名、井桁(いげた~井戸の縁を取り巻く板の枠)」などの意味がありますが、これだけではこの場合の用をなしません。
しかしこの一字を「偏と旁」にいったん分解してみると、かつて私たちが抱いていた「韓」のイメージとは似ても似つかぬ事実が明らかとなってくるのです。まさにその様相は一変します。
それでは先ず「韓」の左側にある偏の方の意味から求めてみましょう。
そうすると「韓の偏」には「草の間から太陽が昇り、潮が満ちてくる時。日が昇るような強い力。あるいは大きい、強い」などの意味があるようです。
ということは、太陽が昇ってくるというのですから、東方の地という意味も含まれているということですね。
そして、右側の旁にあたる「韋(い)」は、「なめし皮。毛を取り去って柔らかくなめした動物の皮」という意味となっています。
全体としては「毛皮を身に着けた人が住んでいる、太陽の昇る東方の地」ということになります。私が何を言わんとしているのか、もうお分かりですね。
そうです。あの「皮服の鳥夷(ちょうい~倭人の先祖・『尚書』禹貢・冀州)」ですよ。彼らの本拠地が、この韓地、朝鮮半島の南半部であった。そのことを見事にも、この「韓」の一字が証明しているのです。
それに対して古代の中国人は現地の人々がいう「加羅」の発音から、見事にも「韓」の一字を想起し選択した。そういうことではないでしょうか。
あるいはまた、「韓」を思いついたのは倭人自身であった可能性もありますね。倭人はスサノオやニニギの時代から韓地を韓国(からくに)、その地の神を韓神(からのかみ)などと呼び、それに「韓」の字を適用していた節が伺えますからね。
本来、中国と朝鮮半島にはさまれた内陸部に存在していた朝鮮民族が、海洋の民としての鳥夷であるはずなどあり得ませんから、彼らとは関係のない時代に、半島南部は既に加羅であり韓であったということですね。
これらの事実は、そのことを如実に物語っているとともに、韓はまさに倭人にとって懐かしき濫觴の地であったということではないでしょうか。歴史って、本当に面白いものですね。
投稿者 寺坂国之 : 2015年1月11日 12:09
そうか・・韓の字の意味を問い詰めると、そういうことになる・・。
韓は日本の倭国の意味か・・。
投稿者 根保孝栄・石塚邦男 : 2015年1月25日 18:54
興味ぶかい視点を含んだ記事ですね。
人類の本性が共同性にあるのは確かなのだろうと思いますが、単にお互いの利便性を図ったというケースも想定されるので、交流事例をもって、それがそのまま共同性といえるのかは、もう少し追求が必要かもしれませんね。