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2007年04月23日
彩文土器の色々 ホント色々ですよ
縄文土器の話ではなくメソポタミアの土器の話です。
皆さんもご存知のように彩文土器ですが、有名なウバイド土器を始まりとして、世界各地に広がっています。広まった原因は侵略と交易によるものでしょうが、どこまで広がったと言うと
>地中海のミノス文化からミケーネ文明、エジプト、メソポタミア、インダス各文明、ルーマニアやハンガリーなどドナウ川流域、ドニエプル川やトルキスタンなどに分布。日本では弥生式土器のなかにこの形式が残っている。<と南風博物館にありました。
最後は日本の弥生式土器にも繫がっているとのこと。ちょっと驚き。 🙄
そこで今日は写真で変遷を紹介したいと思います.
その前に
ウバイド土器 リンク
ここがスタート地点。BC4000年。そこから西は
トルコ ミケーネの例 BC2000年ごろ
リンク
そして東は中国の例 出典不明
弥生式土器の例
リンク
日本までに約4000年かかっています。
その他色々です
出典不明 出典不明
出典不明
おまけにアメリカの例 但しこれは13世紀のもの
リンク
今日は写真の紹介までですが、一番興味を引くのは、弥生式土器とアメリカの土器。ウバイドからどう繋がっていったのか?又調べてみます。
投稿者 dokidoki : 2007年04月23日 TweetList
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コメント
投稿者 tano : 2007年5月4日 23:59
三内丸山の人口には色んな説があるようで200人~500人というのが現在の学者の定説のようです。
住居跡はたくさんあるのでそれを全部同時期に見立てると1000人になるとか、栗の栽培跡から推定して同時期の必要食料は何人分確保していたとか・・・。
しかし仮に200人だとしてもこの時代にしてはかなりの大集落だった事はあきらかです。それに三内丸山を中心にして衛星状に巨大集落があったそうで、いずれにしても祭りなどの時には数百人が結集する大きな邑であったことは確実です。なぜこんなに大きな村が出来たのか?関心はそちらへ向かいますね。
るいネットではこんな投稿がありました。
「三内丸山の大規模化は同類闘争に備えるためではないか?」
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=15154