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2007年02月08日
神の位置づけと統治の方法はどんな関係があるのか
周辺諸国を征服し従えていった王が、その行為の正当化の為に上手く神の存在を利用した様子が前回までのレポートで伺えましたが、今日は神格化した王と、統治の関係がその後どうなっていったのかを調べてみました。
王=神にまでなり、絶対的権力を手にした王は、その後支配下の国の民をどのように統治していったのでしょう?
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まずはメソポタミアの王朝の歴史を、南風博物館のメソポタミア王朝興亡史より概観してみたいと思います。http://www005.upp.so-net.ne.jp/nanpu/history/babylon/babylon_hty.html#prologue
シュメール諸王朝時代、「キシュ」がメソポタミアにおける初めての統一王朝になったあたりから、代表的な王朝として、→アッカド王朝→ウル第3王朝→イシン・ラルサ王朝→古バビロニア王国→ヒッタイト、ミタンニ、カッシートあたりまでを見てみたいと思います。
>●シュメール諸王朝時代
シュメール人の都市国家群は一度も統一されたことはなく、「シュメール王名表」も一貫した歴史年表であるとはいいがたい。
「シュメール王名表」によれば、最初の王朝はキシュということになる。
キシュの次にくるのが、ウル、ウルク、ラガシュ、マリ、アダブといった新興の都市国家である。これらの都市はたがいに牽制し合いながら、同時に存在していたと考えられる。ただ、「キシュ王」という称号は絶大で、キシュが衰退しても、支配者たちはキシュ王という称号を得るために奮闘したのであった。
まずこの時代は、互いに覇権を争っていた時代のようで、最初の統一王朝であった「キシュ王」の称号を廻り、いわば群雄割拠していたような時代ともいえますね。
この時代は、神は自分達の守護神としての位置づけだったわけですね。
>●アッカド王朝
第3代王のナラム・シン(在位前2270年頃~前2233年頃)は「四海の王」と称して、遠く山岳地帯までをも支配する。その詳細が、「勝利の碑」として残っている。また彼は、みずからを「神の使者」と公言した初めての王であるとされる。
アッカド王朝ではそれまでの「キシュ王」の称号にこだわらず、シュメールからの脱却を図ったようです。
自分の息のかかった部下をエンシとして配置した。つまり彼は、多くのエンシの上に立つ、唯一のルガルをめざしたのである。
ルガルとは「軍事的な支配者」を意味し、「エンシ」とは神殿造営者、耕作者、僧侶といった意味をもち、ルガルに従属するものを意味していたようです。
いわば武官と文官といった感じでしょうか。
この時代は明らかに神は王そのものであり、絶対権力者であり、全ての権力を掌中にして民を支配しようとしていたわけですね。エンシを各地に配し、着々と中央集権化、権力固めを進めている様子が伺えます。
>●ウル第三王朝
ウル第三王朝の諸王は、みずからを神格化することで権威の維持をはかった。王を神格化する習慣は、前のアッカド王朝、ウル第三王朝、そしてこの後のイシン・ラルサ王朝のみにみられるもので、古バビロニア王朝では消えてしまった。建造されたジッグラトも、王を讃える碑文も、神に対するのと同様に作られていた
王は自分の事業、つまり大規模建築に没頭していく。
王は神の化身として国家の経済を掌握し、何層にも分化した官僚制をしいてそれを維持していたと伝えられる。
だが行き過ぎた官僚主義は過度な中央集権化を招き、地方分権が形骸化するにおよんでそのひずみが明らかになったのである。
ここでも先のアッカド王朝と同じで、王は神そのもの、全ての権力を自分が握る中央集権の体制であったようです。また同時に官僚(←エンシ?)を何層にも配したとのことですが、あまりの中央集権化が強くて、分化が上手くいかなかったようですね。この辺の背景の意識として、王=神という絶対的存在であることが関係しているのではないでしょうか。
>>●イシン・ラルサ王朝ウル第三王朝は崩壊して、北部のイシン王国と南部のラルサ王国とに分裂した。
また国家経済も、中央統制による公共事業から、私企業による海外貿易へと主役が代わっていく。
●古バビロニア王国
そんな乱立状態のメソポタミアに、西方から新たにアムル人が侵入して建国した。これがバビロニア王国である。
第6代の王ハンムラビ(在位前1792頃~1750頃)が即位したとき、バビロンはラルサ、アッシリア、エシュヌンナに包囲された状態だった。
ハンムラビはすぐれた行政手腕をもった王として伝えられる。まず国民の福祉に尽力し、各地に分散した知事たちには、厳格な正義と秩序を維持するための詳しい訓令を発布している(粘土板に書かれた手紙が出土している)。
神話上の最高神は、バビロンの主神とされる英雄神マルドゥークである。ハンムラビ王自身がマルドゥーク神の熱烈な信望者で、女神イシュタルとともに全国に広まった。
第6代のハンムラビは「ハンムラビ法典」で有名ですが、そちらについてはここではおいておき、彼はなかなかの行政手腕の持ち主だったようです。しかもすでに王自身は神格化しておらず、王自らが熱心な神の信望者になっています。
<スーサで出土した、ハンムラビ法典282の条文を彫り込んだ黒色玄武岩の石碑>
(写真は南風博物館よりお借りしました)
絶対的権力を撒き散らすというよりは、福祉に尽力を尽くすとか、秩序維持のための法典を整備するなど、むしろ人心を掌握する力に長けていたように見えます。
>●ヒッタイト、ミタンニ、カッシート
戦士の国とされるカッシートではあったが、その統治は平和的に行われ、バビロニアの文化を保護し同化政策をとったため、思いのほか長く続く政権になったのである。統治期間は実に400年にも及んだ
ここでも強制的というよりは、元々の文化との同化によって民を上手く統治していったようです。
このように、かつて群雄割拠の時代はとにかく武力で相手に勝つことが何より必用であり、そのためには神は自分達の守護神であったが、一旦制覇してしまうと、次は権力維持の為に、王=神として神格化し、民を強制的に従わせる。
しかしそれだけでは大きくなった国の統治が隅々まで行き届かず(=分化が上手く行かず)、自分の権力が安泰であることともあいまって、国家経済もラルサ王国の頃からは、国が直接手を出すよりは商人にその主役を委ね、国家はそれを管理するという、武力支配の時代から市場社会へと移り変わって行く様子が伺えます。
武力闘争→武力支配→取引関係へと社会の統合様式が変わるにつれ、神も
守護神→王と同格→神は王と民の信望の対象、とし、
最後は支配に対する不満の矛先を変えることで統治(=実は民からの搾取)をうまく行なっていったのではないでしょうか。
投稿者 saah : 2007年02月08日 TweetList
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